活動内容

第105回都草歴史探訪会 東部会 『どうする東福寺 ―時代の荒波を乗り越えて―』(2023.6.21)

第105回都草歴史探訪会 東部会 『どうする東福寺 ―時代の荒波を乗り越えて―』(2023.6.21)

日  時 令和5年6月21日(水) 12:30受付 13:00出発~16:00
集合場所 東福寺北門東側
コース 東福寺北門→退耕庵→海蔵院→霊雲院→臥雲橋・通天橋→天得院→芬陀院→休憩・本堂→偃月橋→即宗院→三門・六波羅門→正覚庵→南明院→遣迎院  解散
参加費 1,000円(含霊雲院拝観料)
参加人数 47名(会員37名 本部2名 東部会8名)
天候 曇り

梅雨空に、前回の東部会(植物園の一世紀)を思い「また雨か!!」とため息をついていましたが、当日はなんとか曇り空となり、部員全員ホッとしたところです。
今回は、主に東福寺の塔頭が応仁の乱以降の荒廃危機を迎えた際どう乗り越えたかに焦点をあて、各塔頭の支援者や特徴等について考える探訪を計画しました。
それぞれの塔頭は法要や催事の際は門前には支援者の家紋を入れた幔幕が使用されることにも注意していただきました。

【はじめに】
東福寺の江戸時代の境内図を大画面にコピーしたダンボールの力作で、本日のコースを武富部長から説明しました。
 

江戸時代の境内図を使ってコースを説明

 

【退耕庵】
毛利家の外交僧で、秀吉の側近となった安国寺恵瓊が庵主となった塔頭です。恵瓊は秀吉の意を受けて東福寺庫裏や通天橋などを再建しました。幔幕は毛利家家紋「一文字三星」です。門内右に、廃寺となった小町寺から遷された玉章(たまずさ)地蔵が祀られています。
 

退耕庵

 

【海蔵院】
江戸時代から五摂家の近衛家の菩提寺となり、幔幕は近衛牡丹です。境内は介護施設となっていますが、一部には近衛家に降嫁した後水尾天皇の内親王と、伏見宮妃となったその娘が葬られ、宮内庁の管理地となってます。近衛家の歴代墓はその後大徳寺に移転し、現在は残っていません。
 

海蔵院

 

【東福寺の歴史】
鎌倉時代に九条道家が祖父・九条兼実の菩提寺として東福寺を創建し、寺号は東大寺と興福寺になぞらえ東福寺と名付けられました。室町時代を通じて幕府が援助を惜しまず、特に足利義持の肩入れが目立ちます。釈迦大涅槃図で有名な東福寺の画僧・明兆を高く評価し、亡くなるまで深い交遊が続きました。

しかし応仁の乱が勃発し、塔頭の大半を焼失しました。安土桃山時代~江戸時代は秀吉、北政所、家光、後水尾天皇などによる庇護や援助で寺運は回復します。

明治維新の上知令で大打撃を受け、塔頭も半減しました。追い打ちをかけるように明治14年の火災で主要な建物を焼失しましたが、室町時代の禅堂、東司、三門などは残りました。しかし復興にはその後、長い年月を要しました。
 

【霊雲院】
院内に入り、重森三玲修復の庭園「九山八海の庭」を拝観しました。熊本の僧で霊雲院の住持となった守沅(しゅげん)が、細川忠利(細川忠興とガラシア夫人の子)の遺品として拝領した遺愛石を中心としていて、江戸時代から名園として知られていました。その他、西郷、月照密談の部屋、聚楽第から移築された茶室「観月亭」を参観し、日ロ戦争の捕虜が残した工作品を見せてもらいました。
 

霊雲院

 

九山八海の庭
観月亭

 

【月下門・臥雲橋・通天橋】
皆さんレシーバーを装着されているので歩きながら各門、各橋の歴史やモミジの見所を説明しました。
 

臥雲橋

 

臥雲橋から見る通天橋

 

【天得院】
創建は南北朝時代ですが、慶長年間に方広寺梵鐘の鐘銘を撰文した文英清韓が住持をしていました。鐘銘の「国家安康君臣豊楽」の部分が問題とされ、その後の結果は皆さんご存じだと思います。
 

天得院

 

【芬陀院】
一条家の菩提寺です。「鶴亀の庭」は雪舟作庭とされています。書院の建物は、一条家出身で桃園天皇の女御となった恭礼門院から下賜されたもので、屋根瓦には一条家の家紋である一条藤がつけられています。
 

芬陀院

 

【本堂】
禅宗寺院では本尊を祀る仏殿と、老師が説法する法堂とが並列して建っていますが、東福寺では明治14年に火災により焼失、昭和9年に仏殿と法堂を兼ねて本堂が建立されました。本堂には焼失した、立てば15mのご本尊の焼け残った217.5㎝の左手が残されています。
 

本堂

 
今回、大きさを実感するため、西部会員の西田民子さんに実物大の左手の絵に着色していただき、参加者の皆さんと記念写真を撮りました。左手は与願印であり、大きな願いが叶うことでしょう。
 

西田民子会員手作り、大仏左手の実物大の絵

 

本堂の前で記念写真

 

【偃月橋】
慶長8年に改架された、橋としては唯一の国の重要文化財で、日本百名橋の一つです。中央が少し膨らんだ弓張月のようになっているのが、この橋の名前の由来です。
 

偃月橋

 

【即宗院】
非公開で中には入れませんが、南北朝時代に6代目薩摩藩主島津氏久の菩提を弔うために創建されました。ここは、平安時代後期、藤原忠通が建立した東御堂を、その子、兼実が山荘「月輪殿」として引き継いだ場所でもあり、その庭は、江戸時代の「都林泉名勝図会」にも名園として掲載されています。境内の山には、維新後、西郷隆盛が幕末の戦いで命を落とした薩摩藩士を弔うために建立した供養碑があります。
 

即宗院

 

【三門】
五間三戸の二重門、明治の火災もまぬがれ、禅宗寺院では日本最古・最大の建築物で、国宝です。扁額「玅雲閣」は足利義持筆、四方の柱は「太閤柱」と言い、豊臣秀吉が天正地震で傾いた三門を補強するために立てました。
本来、仁王像が左右に安置されていましたが、現在は宝物館に収蔵されています。(京都国立博物館で10月から東福寺展があり、現在、先行展示中です。)楼上には明兆とその弟子による極彩色絵が描かれています。
 

三門

【勅使門】
勅使門は天皇の勅使を迎える時だけに開かれる「開かずの門」です。西向きに建っているのが珍しいです。現在の門は、家康が1590年に寄進したと思われる南明院の表門を、1893年に移築したものです。
 

【六波羅門】
六波羅門は北条氏の六波羅探題にあったものが江戸時代初期までに移築されました。門には足利尊氏が六波羅探題を滅ぼした戦いの矢傷(??)が残っています。この六波羅門と月下門が鎌倉時代の建築で、東福寺では最も古いものです。
 

六波羅門

 

【正覚庵】
この場所には、正統院という塔頭が有りましたが衰退し、明治に正統院の西南にあった正覚庵が移転してきました。正覚庵は伊達家の創建で、幔幕は伊達家家紋「竹に雀」です。現在の本堂は昭和49年に白洲次郎の父・文平の白洲御殿を移築したもので、11月23日の筆供養の日には綺麗な庭が拝観できます。
 

正覚庵

 

【南明院】
足利義持が創建。第2世住持は画僧・吉山明兆です。墓地には秀吉の政略結婚の犠牲となった秀吉の異父妹・旭姫の墓があります。徳川家康が継室旭姫を葬り、江戸時代を通じ徳川幕府の庇護で栄えますが、明治維新後は衰退します。説明の時間がありませんでしたが、飛び地墓地には明兆、藤原俊成などの墓があります。

旭姫の墓(南明院)

 

【遣迎院】
東福寺塔頭ではなく、浄土宗西山禅林寺派の寺院です。九条兼実が月輪殿にお祀りした西方極楽浄土へ送り出す釈迦如来(遣)と迎える阿弥陀如来(迎)に端を発すると言われています。秀吉の大仏の候補地となり移転を命じられましたが、移転話は立ち消えとなり、移転を済ませた方が北遣迎院、当地に残った方が南遣迎院と呼ばれるようになりました。
 

 

遣迎院

 

【解散】
東福寺の伽藍面と言われるように、境内を詳細に廻ってみると相当の距離となり、私の万歩計は7330歩となっていました。しかし、心配していた雨も最後に小雨で止み、まずまずの結果になったと思います。(会員 丹羽氏昭)

(広報 須田信夫)
(写真 須田信夫)

活動内容
このページの先頭へ戻る

Copyright © MIYAKOGUSA All Rights Reserved.