活動内容

第135回研究発表会報告、岡田 英三郎会員、西野 嘉一監事(24.4.18)

第135回研究発表会報告、岡田 英三郎会員、西野 嘉一監事(24.4.18)
 YouTube 期間限定 4月26日(金)から5月2日(木)午後5時まで
    会員のみ限定公開 
 
◆日 時:令和6年4月18日 午後1時10分~午後4時00分
 
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
 
◆研究発表:1.行基と山城(山背) 岡田 英三郎 会員
      2.「藤原氏の軌跡」その3 西野 嘉一 監事
 
◆参加人数:ひとまち 29名
 
 
 
第1部は、.行基と山城(山背) 岡田 英三郎会員です。
 行基の山背における活動
 
行基は、仏教の民衆教化を行い、晩年には奈良大仏の造営に協力しました。

没後「菩薩」と讃えられた奈良時代の著名な僧侶です。しかし、京都ではその業績は讃えられることが少なく、比較的なじみも薄く、恐らく過去の都草の研究発表会で取り上げられることは無かったと思います。

 
今回の発表では、山背(特に紀伊郡、愛宕郡、葛野郡)における活動について考察しました。
紀伊郡では深草での活動、愛宕郡では中山墓地の設営、葛野郡では大井川周辺での活動を取り上げました。
行基の活動には、彼の動員力と土地の新たな開発を望んでいた(三世一身法や墾田私財法永世私財法)地元の有力氏族の思惑が一致したものと推測しました。
 
 
紀伊郡では深草秦氏、愛宕郡では粟田氏あるいは八坂氏、葛野郡では太秦秦氏からの寄進を受けていたと推測しました。
渡来系氏族出身の行基と、これら京都周辺の氏族が渡来系であることは何らかかの繋がりがあったのかもしれません。
 
(会員 岡田 英三郎)
 
 


 
 
 
第2部は「藤原氏の軌跡」その3 西野 嘉一 監事です。
「承和の変」によって嵯峨天皇の系統が淳和天皇の系統を破り、藤原良房を中心とした藤原北家が力をつけてゆくことになる。866年の「応天門の変」によって、良房は競争相手の伴氏を叩き潰し、逆に源氏には恩を売ることになる。こうして良房は藤原北家を藤原氏の本流として、摂政、太政大臣にまで昇り詰めることになる。
 
 
 良房の後を継いだのは養子(兄・長良の三男)の基経。天皇は清和から陽成へと代わるが陽成の母である国母・高子と基経は同腹の兄妹でありながら、あまり仲が良くなく、政治的にはしっくりいっていなかった。陽成は17歳で退位することとなり、後を継いだのは二世代も前の55歳の光孝天皇であった。
 光孝の後を継いだのは光孝の第7子で臣籍に降下していた源定省、後の宇多天皇である。宇多は即位したときは21歳、老練な基経とはうまくいかず、「阿衡の紛議」では基経に頭を下げる結果となっており、基経に対し、いい気持ちは持っていなかった。
 宇多の後を継いだ醍醐天皇は、左大臣に藤原時平、右大臣に菅原道真という布陣で政治を任せたが、この二人も気が合わず、結局は宇多法皇と菅原道真、醍醐天皇と藤原時平という二派の対立となってゆくのである。
 このような中、時平の讒言によって、道真が大宰府に左遷されるという事件「昌泰の変」が起きる。その後に数々の祟りにより時平も亡くなり、醍醐天皇も病み伏し、そのまま亡くなってしまう。
 醍醐の後には朱雀天皇が即位し、太政官は時平の弟である忠平が政権を担当することになる。この時期からを日本の歴史では摂関政治の時代と称している。
 
 
 この朱雀の時代には「承平・天慶の乱」が起こり、この頃から源氏、平氏といった武士が台頭してくることとなる。
 朱雀には子がいなかったため、後を継いだのは弟の村上天皇である。この醍醐、朱雀、村上の時代は、天皇親政に力を注いだ時期でもあり、「延喜・天暦の治」として後の天皇の羨望の的となってゆく。
 忠平の後を継いだのは実質上次男の師輔。しかし師輔は自分の外孫の即位を見ることなく亡くなっている。
 そして次の冷泉天皇を補佐したのは、師輔の息子伊尹、兼通、兼家の三兄弟であった。「安和の変」という三兄弟による疑獄事件によって左大臣・源高明が失脚すると、円融天皇が即位する。
 政治は相変わらず三兄弟が担当していった。三兄弟の伊尹、兼通が亡くなると、三男・兼家が力をつけるが、強引な兼家と円融天皇とはあまりうまくいっていなかった。
 円融の後には花山天皇が即位するが、花山が寵愛する女性が亡くなると、花山は出家したいと言い出す。兼家はこれを好機とみて、天皇をそそのかし出家させてしまう。これを「寛和の変」という。
 ここに史上最年少7歳の一條天皇が誕生し、外祖父となった兼家は摂政となり、一條天皇が元服すると、孫の定子を入内させる。兼家は死期が迫ると長男の道隆を内大臣とする。そして彼は父の死後すぐに関白となり、摂政となってゆく。
 
 
 995年、病魔に侵された道隆が43歳で亡くなると、弟の道兼が関白に選ばれるが、その道兼もすでに病魔に侵されており、すぐに亡くなる。
 ここでいよいよ平安時代のスーパースター藤原道長の登場ということになるのである。この道長と長男道隆の子、伊周,隆家の中関白家とは当然仲があまりよくなく、いろいろな面で両家は争っていたが、この兄弟はある時、女性関係のもつれから、花山院の隊列に矢を射かけるという事件「長徳の変」を起こす。道長はこの二人を左遷することによって、道長の安定政権が確立することになるのである。政治的権力を得た道長の残る課題は、早く娘を後宮に入れ、皇子を産ませその外戚になることと、息子を早く昇進させておくことの二つであった。
(監事 西野 嘉一)
(広報部 岸本 幸子)
 
 
 
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