活動内容

第134回研究発表会報告、高木 哲会員、安田 富枝会員(24.3.21)

第134回研究発表会報告、高木 哲会員、安田 富枝会員(24.3.21)
 YouTube 期間限定 3月29日(金)から4月4日(木)午後5時まで
    会員のみ限定公開 
 
◆日 時:令和6年3月21日 午後1時10分~午後4時00分
 
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
 
◆研究発表:1.庭石の鉱物的解説・・・庭石ってどんな石? 高木 哲 会員
      2.一条天皇と二人の中宮 安田富枝 会員
 
◆参加人数:ひとまち 25名
 
 
 
第1部は、.庭石の鉱物的解説・・・庭石ってどんな石? 高木 哲 会員です。
 京都にはたくさんの美しい庭があります。「おにわさんガイド」という全国1800の紹介ネットでも京都は324件、2割を占めています。
 

庭は日本書紀(612年)百済の路子工が庭造りを教えて以来、蘇我馬子の庭園跡と言われる島庄遺跡から始まり平城京、平安・鎌倉と続き、江戸時代は江戸に300の大名が火事の対策として上屋敷・中屋敷・下屋敷を作り1000を超える大名庭園があったといわれています。現在のニューオータニHはもと彦根藩の上屋敷で高価な佐渡赤玉(22屯)が鎮座しています。
これほど人口に膾炙している日本庭園、その基本は平安時代の橘俊綱が記した「作庭記」にあります。ここでは「石を立てん事、まず主旨と心得るべし」と配石つまり庭石が池、中島、樹木にまして一番大切とうたっています。

 欧州庭園は人工石の彫刻や、刈込の植木を配置し何年たっても景色が変わらない「静」が主体なのに対し日本庭園は自然の石で四季の変化、年ごとの変化をめでる「動」の庭になっています。三島由紀夫は「宮廷の庭」で「時間を庭に導入することを西洋の庭園術は思いつかなかった。【略】日本の庭の秘密は終わらない庭の発明で時間を庭に導入した」と看破しています。
庭石はそんな中、手を加えない自然の石「山採れ、川採れ、海採れ」の石を基本としています。(茶席の石灯籠、蹲などを除き)またその石のいわれなどを愛でることも多く醍醐寺三宝院の藤戸石は源平の藤戸合戦(岡山児島)で戦勝品となり、源頼朝・足利義満・織田信長・豊臣秀吉などが所有したと伝わっています。直接確認は無理ですが産総研の地質図でみると「花崗岩」であることがわかります。龍安寺の石庭の15の石も「緑色片岩・チャート・斑レイ岩・珪質頁岩・石英片岩・細粒花崗岩」など直接確認は無理ですが見た限りではごく普通の石の配置になっています。
 

庭石はどこにでもある普通の石ですが、産地によって微妙に特徴や美しさが異なり産地の名前で高価取引(現在環境保全でほとんどの銘石産地では採集禁止)されています。
少し紹介しますと北海道の神居古潭石(アクチノ閃石)・青虎石(角閃石片岩)、山形の鳥海石(安山岩)、青森の津軽錦石(ジャスパー)、群馬の多胡石(砂岩)、埼玉の秩父青石(緑泥片岩)
金沢の戸室石(角閃安山岩)、福井の笏谷石(緑色凝灰岩)、諏訪の鉄平石(硬質安山岩)、佐渡赤玉石(ジャスパー)、滋賀の守山石(チャート)、京都の鞍馬石(磁硫鉄鉱花崗岩)、貴船石(輝緑凝灰岩)、和歌山や徳島の紀州・阿波青石(緑泥片岩)、鳥取の佐治石(輝緑凝灰岩)、長崎の諫早石(砂岩)宮崎の椎葉石(輝緑凝灰岩)などまだたくさんの銘石があり、有名な庭園のメインの景石となっています。
病気の治療法にも「箱庭療法」があるように、我々日本人は美しい庭の縁側に座り「眺める」と自然と心が落ち着くのは昔からのDNAがそうされるのでしょうか。(会員 高木 哲)
 
 


 
 
 
第2部は一条天皇と二人の中宮 安田富枝 会員です。
 平安中期、第66代・一条天皇には二人の中宮がいた。一人は定子といい、もう一人を彰子という。そして、定子に仕えたのが清少納言で、彰子に仕えたのが紫式部である。一条天皇と定子、彰子は従兄の間柄である。
 

 定子は14歳の時に3歳年下の一条天皇に后として入内する。この当時の結婚はすべて政略結婚で、二人の結婚も例外ではなかったが、二人は恋愛感情をもっていたといわれる。定子は母が内侍司の女官だったため、漢文の教養をもち明るく自由な家庭の雰囲気を身につけていた。それは天皇とって新鮮なものだったに違いない。
 定子が中宮のとき、父・道隆が関白として権力をふるっていたが、43歳のとき飲水病(糖尿病)で亡くなってしまう。その翌年、「長徳の変」という定子の兄弟・伊周、隆家が配流される事件が起こり、懐妊中であった定子は髪を切る。
 

 道長は妻を選ぶとき貴種にこだわった。左大臣・源雅信に娘の倫子との結婚を願い出る。雅信は、父が醍醐天皇の同母弟・敦実親王であり、宇多天皇の孫という血筋のため、話にならぬと拒否。しかし、雅信の妻がこの結婚話を歓迎して夫を説得する。娘の倫子は23歳で、当時としては行き遅れの年齢だった。いつか天皇の后として入内させるつもりだったのだが、入内させる天皇がいなかった。
 
 こうして倫子と結婚し産まれた彰子を、道長は定子が第二子を出産する一週間前に入内させる。自分が実権を握るにはどうしても彰子を中宮にしなければならない。定子を皇后にして格を同じにする必要がある。道長は母や藤原行成を味方につけ、天皇を説得させ「一帝二后」が誕生する。しかし、定子が第三子の出産時に24歳の若さで崩御し、一帝二后は1年たらずで解消した。入内して9年目に彰子は後の後一条天皇を産む。道長は摂政になるが、翌年出家して頼通に譲り政界から身を引いた。87歳で彰子が崩御したのは、曾孫である白川天皇の御代だった。
                            (会員 安田 富枝)
 
                             (広報部 岸本 幸子)
 
 
 
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