活動内容

第133回研究発表会報告、堂園 光子 会員、京のこと語り隊より2名 会員(24.2.22)

第133回研究発表会報告、堂園 光子 会員、京のこと語り隊より2名 会員(24.2.22)
 YouTube 期間限定 3月1日(金)午前10時から3月7日(木)午後5時まで
    会員のみ限定公開 
 
◆日 時:令和6年2月22日 午後1時10分~午後4時00分
 
◆場 所:ひとまち交流館 京都 2階
 
◆研究発表:1.「文武天皇から元明・元正天皇まで」 堂園 光子 会員
 
      2.「京(みやこ)のこと語り隊」から2名
          ①「上京の寺々―その多様性―」 奥西 不二 会員
        ②「明朝時代の様式が残る」黄檗宗大本山 萬福寺を訪ねて 酒井 源弘 会員
 
◆参加人数:ひとまち 29名
 
 
第1部は、 「文武天皇から元明・元正天皇まで」 堂園 光子 会員です。
 文武天皇からは「続日本紀」の世界です。
「続日本紀」は文武天皇の即位から桓武天皇の791年(長岡京時代)までのことが記されています。

藤原京から平城京・長岡京までの約100年間のことです。

文武・元明・元正・聖武・孝謙・淳仁・称徳・光仁:桓武天皇の8人、9代です。

文武天皇の時代は短く、15歳で即位し、25歳で崩御しています。在位期間は11年間です。
その後、母親が即位しました(元明天皇)。これは異例のことです。

皇后の経験もない母親が天皇位を継ぐことはかつてありませんでした。
また、その次は娘の元正天皇が皇位を継ぎました。
これも異例中の異例です。独身の内親王が天皇位を継いだことはそれまでにはありませんでした。

これは文武天皇の子供・首皇子(聖武天皇)を将来何としても天皇につけるためのものでした。
そしてこれを支えたのが藤原不比等です。

藤原不比等は持統天皇の時代に現れ、元明天皇の時に大きく台頭してきます。
聖武天皇は不比等の孫です。
ここから藤原氏が大きく日本の政治の中心に入っていき摂関政治の基礎をつくっていきます。
                          (会員 堂園 光子)
 
 


 
 
第2部 前半は「上京の寺々―その多様性―」 奥西 不二 会員です。

「上京の寺々を巡る」という街歩きの企画をし、その為に東の相国寺から西の北野天満宮まで道を変えて何度も往復するうちに他の地域とは違うことに気が付きまた。

 それは寺院の数の多さと多様な宗派があることでした。ネットで確認すると上京区の面積は京都市全体からすると100分の1にも満たない、そこに市内で2番目に多く寺々が集中しているのです。なぜこのような姿ができ上ったのか、というのが今回のテーマです。

 平安京の創生からの話になりますが、地勢的に平安京の東北地域は住みやすい場所で水利にも恵まれたところだから人が集まる。天皇が住まいするところであり政治・文化の中心地であった、だから当然ではないか。ところが桓武天皇は京中に私的な寺院を造ることを禁止していました。だが政権が変わり武家の世になるとここに多くの寺社が堂々と造られるようになりました。

 中世(鎌倉・室町時代)に入るとよく言われるところの公家・武家・寺社の三権門体制にとなります。がこの三権門を経済力で支えてきたというのが上京の町衆でした。朝廷や公家は門跡寺院を、武家は禅宗寺院を、町衆は新興の浄土宗・日蓮宗に帰依しそれぞれの御願寺を造ってきました。

ここも例外なく度重なる地震などの天災、戦乱による火災や疫病に見舞われましたが場所を移すことなく、その都度立ち直り再建されてきました。この原動力は「信仰の力」、この地域に集中していた人・物・金を「信仰」によって集め、動かし、新しい姿に作り替えて来たと言えます。

現在の様相は堀河通を挟んで東側にはこの地域のみに集中する尼門跡寺院と足利義満が残した相国寺があります。西側には庶民信仰に支えられ愛称を持つ通称寺や洛陽三十三所霊場札所が点在しています。また東西に走る寺ノ内通には日蓮・法華宗の寺々が並んでいます。
なぜここに集中しているのか、次回は今回に引き続き個々の寺々を紹介しながら具体的にこの問に迫っていきたいと思います。
                             (会員 奥西 不二)
 
 
第2部後半は「明朝時代の様式が残る」黄檗宗大本山 萬福寺を訪ねて 酒井 源弘 会員です。

 萬福寺は1661年(寛文元年江戸時代)中国明の高僧「隠元禅師」により宇治大和田の地に開山されました。
第4代将軍徳川家綱公と第108代後水尾天皇とそのご生母清和門院の協力により、9万坪の御寄進をいただきました。
清和門院は伊丹に引っ越されました。

 庶民に見向きもせず本来の仏教を忘れている「仏教の教え」を立て直すために、

妙心寺の龍渓和尚は4度の来日要請をしました。三度目の愛弟子也蘭の渡海失敗もあり66才関わらずこの大和田の地に「明朝時代そのものの萬福寺」を開山されました。

 明朝の正式な仏教の教え、明の進んだ文化、文明を伝えられました。現在の中国には残っていない文化と文化財です。
1、 先進の美術、医学、建築様式、文学、印刷術、建築ほか
2、 立ってお経よむ、唐音で発音する明朝のお経、原稿用紙のもとになる明朝体で書かれた文字
3、 普茶料理(四人で卓を囲む)、立って顔を洗う洗面台、図書館の制度
4、 その名の通り「インゲン豆」、木魚、煎茶、孟宗竹、西瓜、蓮根、寒天他

を伝えられました。

 1672年82才で、中国に帰れずじまいでお亡くなりになられました。
                      (会員 酒井 源弘) 
                     (広報部 岸本 幸子)
 
 
 
 
 
 
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