活動内容

第131回研究発表会報告、西野 嘉一監事、谷川 清三会員(23.11.16)

第131回研究発表会報告、西野 嘉一監事、谷川 清三会員(23.11.16)
 YouTube 期間限定 11月24日(金)から11月30日(木)午後5時まで
    会員のみ限定公開 
 
◆日 時:令和5年11月16日 午後1時10分~午後4時00分
 
◆場 所:ひとまち交流館 京都 2階
 
◆研究発表:1.「藤原氏の軌跡」 その2 西野 嘉一 監事
      2.「おもてなしのたばこ盆」 谷川 清三 会員
 
◆参加人数:ひとまち 26名
 
 
 
第1部は、「藤原氏の軌跡」 その2 西野 嘉一 監事です。
 聖武天皇、光明皇太后が亡くなると、二人の子であった孝謙太政天皇と寵愛する道鏡とが国政を動かしてゆくことになる。淳仁天皇より恵美押勝という名を貰い、大きな権力を得ていた藤原仲麻呂は「朝廷の咎」を並べ立て「恵美押勝の乱」を起こす。しかし如何に権力を握っていたとはいえ、所詮は臣下であり、近江高島郡で妻子・徒党と共に斬殺されてしまう。孝謙上皇は称徳天皇として重祚し、道鏡との政治がこのあと6年続くこととなる。
次の天皇は道鏡で決まりという空気が流れる中、反対派によって再調査が行われ、和気清麻呂が宇佐八幡から持ち帰った答えは「否」であった。清麻呂も姉の広虫も官位剥奪の上、大隅と備後に流されることになる。

 しかし770年、称徳天皇が亡くなり、後ろ盾を失った道鏡は、すぐさま下野国へ左遷され2年後に亡くなっている。左大臣・藤原永手(北家)は62歳の白壁王を立て、49代光仁天皇の誕生となり、妻の井上内親王を皇后に、子の他戸王(おさべおう)を皇太子に定めることになる。
しかし、皇后・井上内親王と皇太子の他戸王も「ふこ」(呪いで人を呪うこと)の罪に連座してその地位を追われ、2年後の同じ日に亡くなっている。これは他戸の弟の山辺親王(後の桓武天皇)を皇太子にしたいがための藤原式家の陰謀であったと、後に言われている。
 この頃の政治は、太政官に藤原氏が11名も居り、そのうち式家は4名という式家主導体制であったが、井上内親王の祟りか、太政官首班の良継をはじめ、多くの藤原式家の人間があっという間に亡くなってゆき、式家の権力は低下してゆくことになる。このような中、山辺親王が即位し、50代桓武天皇の誕生となる。
桓武は長岡京への遷都と、安殿(あて)親王を皇太子にすることを、藤原種継に期待してゆくことになるが、785年、長岡京造営現場で種継は暗殺されてしまう。しかしこの暗殺計画に早良親王が関わっていたとして早良を幽閉し、淡路島へ配流としたが、早良は護送途中に亡くなっている。

 806年桓武が70歳で亡くなると、安殿親王が即位して平城天皇となるが、平城は太政官の参議を廃止したり、官僚組織の効率化を目指したため、貴族社会から浮き上がってゆく。病気がちであった平城は、809年弟の神野皇太子に譲渡する。52代嵯峨天皇の誕生である。平城旧京へ住まいを移した平城上皇は、平城旧京への遷都を号令するが、これに対し嵯峨側は平城側近の藤原薬子の官位を剥奪し宮中から追放。兄の仲成りも佐渡権守に左遷する。激怒した平城は諸国に軍を起こすように命じるが、結局誰も従わず、平城は平城宮で剃髪することとなる(薬子の変)。この事件の頃、藤原北家の中心にいた藤原内麻呂は二人の息子、真夏と冬嗣を、それぞれ平城と嵯峨に付け、どちらが勝利しても藤原北家を守り抜く生き残り戦略を考えている。結局嵯峨方に送られた冬嗣が藤原北家の長として残り、武家社会が台頭するまでの約250年を謳歌してゆくことになるのである。

 嵯峨天皇は823年に退位し、位を大伴親王に譲る。53代淳和天皇である。淳和は自分の子である恒世親王を皇太子にしたかったが、恒世親王が固辞したため、嵯峨の皇子正良親王を皇太子とすることになる。この時から嵯峨皇統、淳和皇統のどちらが嫡流となるか、微妙な争いが繰り広げられてゆくことになる。
 淳和のあとは嵯峨の子が、嵯峨の子のあとは淳和の子がという予定であったが、淳和のあとの54代仁明天皇には道康親王がおり、この道康親王は時の政権の首班藤原良房の身内であったため、藤原氏は当然この道康親王を皇位継承者にしたいと思っていた。
 淳和上皇、嵯峨太政天皇が相次いで亡くなると、皇位継承が一気に動き出し、結果淳和の子の恒貞親王は廃太子、藤原良房の妹・順子(のぶこ)を生母とする道康親王が皇太子に立てられることになる(承和の変)。これにより嵯峨皇統、淳和皇統両統鼎立の争いは終止符がうたれることになる。
 850年、仁明天皇は41歳で亡くなり、24歳の道康親王が55代文徳天皇として即位する。この時にはすでに良房の娘の明子(あきらけいこ)が入侍しており、この年惟人親王を産んでいる。この惟人親王にはすでに3人の兄がいたが、生後8か月の第4皇子惟人親王が皇太子に立てられている。
 858年病にあった文徳天皇が亡くなると、9歳の惟人親王が56代清和天皇として即位する。もちろん執政能力はないため、太政大臣の良房が「摂政」の役割を果たしていたと思われる。
 864年清和が15歳となり元服した、翌866年「応手門の変」が起こり、この事件によって良房が権力を強め、藤原北家を藤原氏の本流とし、北家繁栄の土台を築いてゆくことになるのである。(監事 西野 嘉一)
 
 


 
 
第2部は「おもてなしのたばこ盆」谷川 清三 会員です。
 皆さん、昨今は「たばこ」と言う言葉を聞くだけで、いやな思いされる世の中です。
元々日本では、「たばこ」は嗜好品に類し、良き嗜好品として嗜まれていました。そこで本日は「良き日本のたばこ文化」、特に「たばこ盆」について、「おもてなしのたばこ盆」と題して
お話しをさせて頂き、嗜好品としての「たばこ」を、「良き日本のたばこ文化」をご理解願いたく、お話しを進めさせていただきました。

先ずは「たばこ盆」について、
 たばこ盆 は、日本独特の喫煙具です。正式には、盆の正面に向かって左に火入れ、中央にたばこ入れ、右に灰落とし、それにきせる2本 を添えて客前に供した。上流家庭では、什器類に範を得て、びん台、茶席棚、小箪笥などの形を取り入れ、嫁入り道具の一つにもされていた。
一方庶民の間でも「客あればお茶より先にたばこ盆」といわれ、どこの家庭でも必要なものとなった。 
次に「たばこ」について、
 たばこは本来、外来語です。ポルトガル語 ⇒tabaco=煙草、莨  
スペイン語 ⇒tabaq  = 薬 草  と称して居ます。
たばこは、ナス科のニコチアナ属、ニコチアナ・タバカム品種で、原産地は、 南米のマヤである。
たばこは、元来、「嗜好品」です。嗜好品は、年老いてうま味がわかるようになり、節度と品位を守って、摂取する過程をも、大事に楽しむものなのです。
たばこであれば、日常の時空とは異なった、ゆっくりとした非日常の時空へしばし誘ってくれるところに、たばこの嗜好品のよさがある。

さらに「きせる」について、
 きせる の伝来は、たばこと共に慶長年間(約1600年頃)と言われ、きせるもまた蕃語(外国語)成り。
きせる = 喜びを世に留める= 喜世留 と称します。
 きせるは、火皿のある雁首と、竹管と、吸い口の三つの部分より成り、刻みたばこを吸う専用のパイプです。喜世留 は、嗜好品である莨を、小さな火皿の上に少し軽く載せ、莨盆の火入の中の炭火で火を貰い、羅宇竹を通しゆっくりと喉元へ運び入れ、自然に気化した柴煙の、香りや味を美味しく、味わえられる。この嗜好品である莨の柴煙の、香りや味を美味しく味わえる、味わい方が、今風に言う処の、クールスモーキングであります。
きせるとは, 本来、日本の近世=桃山・江戸時代の武士・商人・庶民の人間中心の文化を、日本的な創意・意匠・技巧を以って現し造られた、あらゆる階級層の生活感情を示せるものとして、装飾の意に用いられたものです。

 そして「おもてなしのたばこ盆」については、
おもてなし(御持て成し)とは、心のこもった待遇のこと。顧客に対して心をこめて歓待や接待やサービスをすることを言う。
「客あればお茶より先にたばこ盆」といわれ、庶民の間では、どこの家庭でもまず、たばこ盆 を客前に供した。
現代でも茶道では、寄付、腰掛待合、薄茶席の三か所に、その席にふさわしいたばこ盆が置かれ まず、寄付より「たばこ盆」を客前に供した。
「たばこ盆」はまず、客前に供すもの、おもてなしの気持ち、心意気をお客様に表わすもの、ではないでしょうか。
 最後に、
このように、日本独自の喫煙具である「たばこ盆」は、初会の場の品位、接客の心情を表し、「おもてなし」を表現する日本の伝統工芸品 なのです。
この良き「日本のたばこ文化」を、後世へ遺して生くことに、皆さまのご理解とご協力、ご支援を、宜しくお願い申し上げ、結びとさせていただきました。(会員 谷川 清三)

                                       (広報部 岸本幸子)

 
 
 
 
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