活動内容

第127回研究発表会報告、羽田 徹夫 会員、豊田 博一理事(23.4.24)

第127回研究発表会報告、羽田 徹夫 会員、豊田 博一理事(23.4.24)
 YouTube 期間限定 4月30日(日)から5月6日(土)午後5時まで
    会員のみ限定公開 
 
◆日 時:令和5年4月24日 午後1時10分~午後4時00分
 
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
 
◆研究発表:1.「東福寺三門を観る」羽田 徹夫 会員
 
      2.「文章生のゆくえ」豊田 博一 理事
 
◆参加人数:ひとまち 31名
 
 
第1部は、「東福寺三門を観る」羽田 徹夫 会員です。
 今回の発表の根幹は、京都五山の寺格四位東福寺の三門でありながら、「挿し肘木」と「平行垂木」が現存していることです。東福寺は禅宗寺院ですから、伽藍は禅宗様を旨とするところ、三門においては、組み物には大仏様の挿し肘木を、軒には和様の平行垂木を見ることができます。現存の三門が建てられたのは15世紀初めです。鎌倉前期の創建伽藍は14世紀初めの火事で全焼し、伽藍の再建は順調には進まない中、三門は禅宗を強力的に支援する義満、義持時代に施工竣工しました。また、この時代は臨済宗の五山の座位が義満によって見直され、確定した直後に当たります。このように禅宗及び禅宗様建築の隆盛期にあたりますから、普通では全て禅宗様で造られるところ、各様式が混ざる三門は強い意志が働いて再建したものと想像することができます。

 東福寺は、三門の説明板に「構造的には大仏様であるが、視覚的には禅宗様である」と書き、三門に大仏様があることを言及しています。この説明板の大仏様、禅宗様の実体を探るべく、三門の構造、意匠について、つぶさに様式を確認したところ、大仏様の実体は通し柱・挿し肘木であり、禅宗様の実体は説明板の通りであったが、禅宗様、大仏様の範疇に入らない、説明板では触れていない和様の平行垂木が余りました。また、組み物の斗と肘木の組み方が禅宗様でなく、東大寺南大門様でなく、どちらかといえば和様に近いものであった。一方、二手先の肘木を取り除けば、浄土寺浄土堂様にすることができそうで悩むところであった。

 現存挿し肘木から、創建時に大仏様があったと研究者が推定(別記)されたと同じように推定を試みれば、平行垂木も創建時に存在したと構築することができます。組み物の組み方は、創建時の形式と推定するにはリスクが伴うが、和様に近いものを感じさせてくれます。大仏様が重源没後、急速に消滅したことも考え合わせれば、創建時の東福寺はすべて大仏様で施工したとは考えにくく、東福寺三門を観ると、現存の平行垂木、組み物の組み方が、創建時に和様の存在を連想させてくれます。

 
(別記)推定根拠;①現存三門の挿し肘木の存在は、創建時の踏襲しか考えられない②創建時、大規模仏堂に対応できたのは大仏様しかない③道家が宋様式を希望④大工に、東大寺大仏殿大工の縁者物部為国がいた。
                      (会員 羽田 徹夫)
 
 


 
 
第2部は「文章生のゆくえ」豊田 博一 理事です。
文章生のゆくえ 官職への道
1 蔭位コース 
親王の子 → 従四位下、諸王の子 → 従五位下、五世王の嫡子 → 正六位上
(庶子は一階を降す)貴族の子

  子孫が21歳以上になったとき叙位

2 大舎人、兵衛、使部コース
21歳以上の六位~八位以上の人の嫡子・庶子が試験を受け(簡試)、上等(端正・書算堪能)が大舎人、中等(強幹で弓馬に熟達)が兵衛、下等(劣弱・文章不知)が使部に振り分けられ官人の道を進む。

3 大学寮進学コース
大学寮
令制による官人養成のための教育機関、701年の大宝令の制定とともに正式に設置。
入学資格 13~16歳で聡令(そうれい)な者で、貴族の子供及び孫、東西史部(ふひとべ)の子供及び孫、八位以上の官人の子供。また、少数であるが姓を有しない白丁(はくてい)身分(公民)の子弟であっても入学が許された
大学寮の学科
明経道(みょうぎょうどう)
 儒家古典(周易、周礼、儀礼、詩経、孝経、論語など)の解釈学。これらの古典には古代の聖人・賢人の心が込められていると信じ、それをとらえることを終局の目標とする。大学寮設立当初は明経道のみが本科であった。明法道、紀伝道が独立した後も大学寮の学生は一般教養として学ぶ。講義の入口は音博士より、儒家古典の漢字の発音や素読が教えられた。
明法道(みょうぼうどう)
 728年に律学博士が設置。730年に学科として確立。律令を専攻する法律学科。
紀伝道(きでんどう)
 728年に文章博士が設置。730年に学科として確立。中国の史書・詩文を学ぶ学科。
算道(さんどう) 大学寮設立時から存在した学科。算術を学ぶ学科。
大学寮の試験 10日ごとに行われる旬試、学年末試験に相当する年終試
卒業試験に相当する応挙試(おうこし)が実施 730年よりは得業生試が実施
式部省の実施する、官人登用試験
大学寮もしくは国学を卒業した者に受験資格➡730年よりは得業生であることが資格
進士試       高度の国政上の問題を出題➡合格25歳時に従八位下~大初位上
秀才試(対策、献策、方略試)  紀伝道より出題➡合格25歳時に正八位上~正八位下
明経試              明経道より出題➡合格25歳時に正八位下~従八位上
明法試              明法道より出題➡合格25歳時に大初位上~大初位下
算試             算道より出題   ➡合格25歳時に大初位上~大初位下
文章生(もんじょうしょう)
紀伝道(史書・漢文)を専攻した学生。730年に文章生20人が置かれたのに始まる。
文章生の中から成績優秀な2名が選ばれ文章得業生に、文章得業生が国家試験、秀才試(対策)に合格して、官人になるのが基本。

文章生の歴史
古代日本では、中国の儒教そのものの本質を学ぶより、中国の史書・詩文を学ぶことが好まれた。奈良時代より貴族、官人の基礎的な教養として中国の史書・詩文を学ぶことが普及していったが、文章生を経て貴族に登用されるものは極めて少なかった。
平安時代に入り、嵯峨天皇が唐風文化の導入、文人(中国の史書・詩文を学んだ者)の登用
を進めたことから、紀伝道の人気が高まり、文章生出身者の貴族(大半が、藤原氏や皇族系以外の中・下級の氏出身者)を輩出することとなる。
  この流れは、800年代半ば過ぎまで続くが、摂関政治が進展するとともに、中・下級の氏出身者の登用は少なくなった。また、文章生から文章博士へのコースも門閥化し、藤原北家真夏流(日野家)、藤原式家、藤原南家、菅原氏、大江氏が独占するようになった。

 
文章生から文章博士コースを生かして、生き残った家
菅原家、大江家、藤原北家真夏流。いずれの家も、着実に文章博士を輩出し、最低限貴族の地位を保ち、いずれかの時点で時の有力者との接点を梃子にして公卿になる者を出している(理事 豊田 博一 )

         (広報部 岸本 幸子)

 
 
 
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