活動内容

第126回研究発表会報告、吉岡 央 会員、西野 嘉一理事(23.3.16)

第126回研究発表会報告、吉岡 央 会員、西野 嘉一理事(23.3.16)
 YouTube 期間限定 3月20日(月)から3月26日(日)午後5時まで
    会員のみ限定公開 
 
◆日 時:令和5年3月16日 午後1時10分~午後4時00分
 
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
 
◆研究発表:1「京へ物資を ~水運編~ その2」 吉岡 央 会員
 
      2.「藤原氏の軌跡 その1」 西野 嘉一 理事
 
◆参加人数:ひとまち 27名
 
 
 
第1部は、「京へ物資を ~水運編~ その2」 吉岡 央 会員です。
 

 日本の物流の歴史について、江戸時代以前と現代とを考察したいと思います。まず江戸時代以前の物流手段として陸上では人や牛馬でした。
牛馬の輸送能力は人と比べると数倍以上もありますが、山道では殆んど人に頼らざるを得ませんでした。更に道路(主要街道)事情も決して良いとは言えませんでした。特に江戸幕府は強力な幕藩体制の執行を理由に主要街道における架橋を拒みました。これらにより物流効率を判断すると、陸上輸送は水上輸送より劣ることが分かります。

一方当時の水上輸送について考察したいと思います。海上輸送では東・西廻り航路が17世紀初頭に確立し、菱垣・樽廻船が上方と江戸間を中心として大量輸送に活躍して各港町は大変賑わいました。又北前船は日本海側を中心に航海しながら寄港地で地元商人を船内
に招き、生活必需品や人気商品を売買して売り上げを伸ばしました。更に日本各地の中・大河川や琵琶湖等の内陸水運も、生産者・商人・消費者にとって最も身近な大量輸送手段であるために、気軽に素早く利用出来たので勢いに乗り農業・産業・商業も活発になりました。

 

 現代の国内物流事情を空・海・陸の順に考察したいと思います。まず空ですが国内航空貨物は、郵便物や特定目的がある軽量・少量の特殊貨物が大部分です。このために全体物流量に占めるシェアーも低く1% 未満であるのでここでは触れません。

次に国内海上輸送です。同輸送は日本列島沿いに小・中型貨物船(500~1000t) を使い、主に沿岸地域に貨物の発着点があることが一番大切です。積荷は工業用原材料(化学薬品・鉄材・セメント)が中心で海上物流量シェアーは約44% です。

最後に陸上輸送です。先述した内陸水運(川・湖) は全てトラック又は鉄道輸送に切り変わったために、取扱量はゼロになりました。現代の陸上輸送手段と言えばトラックと鉄道ですが、その取扱量は12:1 でトラック輸送が圧倒的に多く、陸上物流量シェアーは約56%
あります。しかし最近の環境・人手不足問題にも関連しますが、鉄道輸送における炭酸ガス排出量はトラック輸送に比べると約1/7と低いうえ、貨物列車機関士とトラック運転手の賃金効率は1/40~1/50 と言われています。増々厳しくなる環境問題や人口減少問題を
考えると各種の厳しいハードルもありますが、貨物輸送は徐々にトラックから鉄道へ切り替える価値は十分にあると思います。(会員 吉岡 央)
 
 
 


 
 
第2部は「藤原氏の軌跡 その1」 西野 嘉一 理事 です。
 
 私は東京で生まれ育ったため、京都で生まれ育った人の前で京都のお話をするなど、とんでもないと考えている人間です。しかし祭、行事、しきたり等はともかく、歴史の話ならまぁいいかと今回引き受けた次第です。
さて何をお話ししようかと考えたところ、自分が知っているようで知らない、起こっている事象は知っているが、それが線として繋がっていない。それが自分にとっては平安時代だと気づき、その主人公である「藤原氏」のお話をすることにしました。
つまり自分の勉強のためでもあります。
「藤原氏」というと「乙巳の変」の前あたりから話さなければならず、武家政権の誕生まで600年近くあり、とても1回、2回ではでは話せないので「その1」としました。
また都草では堂園さんという方がずっとライフワークとして『古事記』『日本書紀』を話してきてくださっています。藤原氏というと天皇家を抜きには語れません。堂園さんのお話と重複する部分があると思いますがその辺はどうかご容赦ください。
それでは始めさせていただきます。

中臣氏は古代史族の一つ天児屋根命(春日権現)の子孫といわれ、天津神と皇族とを取り持つ神官であったと伝えられ、神武天皇に従い祭祀を司っていたといわれている。
天照大神が伊勢に祀られた時、その祭主に任ぜられ、29代欽明天皇により「中臣」の姓を賜っている。
中臣鎌足は33代推古朝に現在の飛鳥地方で誕生したと考えられている。この地域は当時「藤井ヶ原」略して「藤原」と呼ばれていたらしい。
大臣であった蘇我馬子と大連であった物部守屋が仏教推進派と廃仏派として争う「丁未の乱」が起こり、仏教推進派の蘇我馬子、厩戸皇子側が勝利し、物部守屋側についていた神道擁護派の中臣氏はしばらく逼塞することとなる。
時代は推古・舒明・皇極天皇と推移してゆくが、天下を取った蘇我馬子は子女を皇子と呼ばせ、皇室行事を独断で行うなど勝手な行動を繰り返すようになる。
このような中、表舞台から失脚させられていた「中臣氏」に鎌足という逸材が現れ、中大兄皇子と共に大和朝廷を根底から覆す大革命「乙巳の変」を起こすことになるのである。
この争いの中、それまでの蘇我氏中心とした歴史書『天皇記(すめらみことのふみ)』『国記(くにつふみ)』も焼失してしまい、それ以降は藤原氏を中心とした『日本書紀』が編纂されてゆくことになるのである。
この時中大兄皇子は20歳、鎌足は32歳。元号を「大化」と改め、新しい政治体系の整備へと乗り出してゆくのである。
667年、飛鳥より大津に都を遷し、翌年中大兄皇子は即位、第38代天智天皇が誕生する。この時天智は42歳、鎌足は54歳であった。
鎌足臨終のとき、天智天皇は大織冠(後の正一位)という位と「藤原」という姓を賜ったとされている。このことは日本の歴史上、非常に大きな出来事で、これによって「藤原」の氏から天皇に「妃」を出せる家柄になったということになるのである。

鎌足には2人の息子がいたが、長男の真人は11歳で出家させられ定慧と名乗っている。神道擁護派、廃仏派の中臣氏がなぜ長男を出家させたかには多くの謎がある。

ここに次男史(ふひと)の孝謙天皇ご落胤説、天智天皇ご落胤説が出てくるのである。
事実、平安時代の書物、『大鏡』や『尊卑文脈』などには天智天皇の子であると書かれているようである。
 さて、天智の後継には弟の大海人皇子がなったが、天智は息子の大友皇子を望むようになる。天智が46歳で亡くなると、大友は即位し24歳で第39代弘文天皇となる。
大海人はすぐに軍を整え大友軍を壊滅させ、飛鳥浄御原で第40代天武天皇となるのである。この時史は14歳であった。
 天武の後、2人の子大津皇子と草壁皇子が早くに亡くなったため、急遽天皇になったのが草壁皇子の母、第41代持統天皇である。
 そして持統と当時中納言の地位にあったと思われる30歳くらいの史によって、持統の後継に、まだ天武の子が6人も存命しているのに、草壁の子つまり天武の孫の珂瑠王を皇太子とすることを強行する。
 こうして697年珂瑠王が即位して第42代文武天皇となり、持統は前例のない太上天皇に就いたのである。
 史は697年に鎌足が賜った「藤原」の氏は史だけが継承し、他の一族は旧姓の「中臣」に戻すようという天皇の詔を得ている。このことによって史とその子孫のみが王権の輔政にあたるということになり、このころ名前を不比等と改めたようである。
 不比等と県犬養美千代との間に生まれた安宿媛(後の光明皇后)が同年生まれた皇太子(後の聖武天皇)の妃に入ることが決められている。

 不比等は孫が聖武天皇として即位するのを見ることなく720年、62歳で亡くなるが、まぎれもなく律令国家を完成させ、律令天皇制を確立した立役者であった。

 

 不比等には4人の息子がおり、それぞれ南家(武智麻呂)、北家(房前)、式家(宇合)、京家(麻呂)として繋いでゆくこととなる。
 そして不比等の死後、天武天皇の直系である長屋王と藤原四家の争いとなってゆくのである。
 729年、長屋王に謀反の嫌疑がかけられ、長屋王は自害する。半年後、天平と改元、光明子の立后がおこなわれる。
 737年疫病が猛威を振るい、不比等の4人の息子が相次いで亡くなってしまう。
 橘諸兄を首班とする政権が発足し、聖武天皇と光明皇后の娘である阿倍内親王が皇太子に立てられる。
 743年、武智麻呂の次男、仲麻呂がやっと参議に任ぜられ、光明皇后はこの仲麻呂に期待してゆくことになる。
 749年、聖武天皇は譲位し、娘の女帝第46代孝謙天皇が誕生することになる。そして756年聖武が亡くなり、遺言により道祖王が立てられる。このころ、仲麻呂は紫微令という地位を手に入れ、光明皇后と直結していったのである。

ここで時間となりました。続きはまた機会がありましたらお話していきます。ご清聴ありがとうございました。(理事 西野 嘉一 )

(広報部 岸本 幸子)

 
 
 
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