活動内容

第136回研究発表会報告、菊井 俊彦会員、福井 大作会員(24.5.9)

第136回研究発表会報告、菊井 俊彦会員、福井 大作会員(24.5.9)
 YouTube 期間限定 5月17日(金)から5月23日(木)午後5時まで
    会員のみ限定公開 
 
◆日 時:令和6年5月9日 午後1時10分~午後4時00分
 
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
 
◆研究発表:1.「平氏の渋谷街道、源氏の渋谷街道」 菊井 俊彦 会員
      2.「人間だけの文化・葬送儀礼と墓制の歴史」 福井 大作会員
 
◆参加人数:ひとまち 27名
 
 
第1部は、「平氏の渋谷街道、源氏の渋谷街道」 菊井 俊彦 会員です。
(1)平氏の渋谷街道
朝廷より平将門の乱鎮圧の命を受けて将門を討滅した坂東平氏の平貞盛は、伊勢国に進出して、鈴鹿郡以北の北伊勢から尾張国の一部までも勢力圏に置いて伊勢平氏の礎を築きました。このように伊勢に本拠をおいて、京都で権門の道を歩む貞盛の男維衡は藤原道長以下の貴顕に武力をもって従者として奉仕するとともに、貴顕の権力によって受領を歴任して財力を蓄える存在となっていきました。
しかし、東国における平忠常の乱の追討に失敗した貞盛流平直方に代わって、乱の平定に成功した河内源氏源頼信が抬頭して、源氏の勢力が拡大するにしたがい伊勢平氏は低迷を余儀なくされました。
 

そのようななか、伊勢平氏の一族平正盛が伊賀国に勢力を拡大するなかで、伊勢・伊賀の家人たちを郎等化することにより強固な武士団を作り上げることに成功して、白河院との結びつきを強めていきます。次の忠盛は平氏の六波羅屋形の原型となる方一町の居宅を造立することにより平氏政権の基礎を築いたとされています。
保元・平治の乱で勝者となった清盛は武家の長者として六波羅屋形の拡張整備に取り組みます。仁安2年(1167)、武士として初めて太政大臣となり、独自の権門平家の全盛期を迎えることになります。

平氏の六波羅屋形の成立から考えますと、六波羅屋形の表門は五条大路末路と古代大和大路の交差する付近にあり、清水寺参詣の道である五条大路末路が当時の渋谷街道の本道であった可能性が考えられますので、平氏の渋谷街道を五条大路末路~清水橋~清水道~清水寺~音羽の滝~歌の中山~清閑寺(しる谷)~山科へと続く道だと想定してみました。

 
(2)源氏の渋谷街道
古代の五畿七道のなかで京都と東国を結ぶ街道には東海道と東山道がありましたが、途中の畿内と濃尾平野の間にはそれほど高くはないのですが急峻な鈴鹿・伊吹の山地が横たわっていました。そのため、美濃廻りの今須峠か伊勢廻りの鈴鹿峠に通過地点が限られていました。
寿永2年(1183)以来、後白河院はたびたび頼朝に上洛することを命じていましたが、この時期にはまだ西国に平家、京都に義仲、陸奥に藤原秀衡などの対抗勢力が存在していましたので、頼朝も上洛することはかないませんでした。
 
 
建久元年(1190)、源頼朝による六波羅新造亭(鎌倉殿)の造営により鎌倉幕府の本拠地六波羅が確定されたことで、頼朝の街道整備の一環として音羽川の谷筋の渋谷街道の開発・整備が進められて東国への本道と認識されるようになりました。渋谷街道には頼朝と馬の伝承や継信・忠信の石塔の伝承など源氏にかかわる話が多く伝わっています。しかし、現在では継信・忠信の十三重石塔は鳥辺野の惣供養塔ではないかと考えられていますので、鎌倉時代初期の渋谷街道にはまだ葬送の地としての鳥辺野の景観が残っていたものと思われます。(会員 菊井 俊彦)
 


 
 
第2部は人間だけの文化「葬送儀礼と墓制」その1 福井 大作会員です。
「死」は人類にとって「最大の謎」であり、人生にとって「最大の疑問」である。
人類は「死」の認識から「葬送儀礼」と「墓制」が発達して来た。
 
 
〇死後の世界は存在するか
① 科学的否定論・・・現代科学では肉体の死とともに全て無に帰する
② 宗教的肯定論・・・死後の世界で生き続ける
③ 半信半疑論・・・・・①②のどちらとも決めかねる
〇日本人5つの特性(民族の特性・DNA・アイデンティティ)
① 穢れ思想 ②言霊信仰 ③怨霊信仰 ④和の心 ⑤祖先崇拝教
〇縄文時代(16000年前~紀元前3~5世紀)
 ・精霊崇拝(アニミズム)・・・自然の存在すべてに霊魂が宿り、再生を繰り返す。
 ・埋葬形式は土葬と手足を折り曲げた屈葬が一般的であった。
 ・埋葬場所は環状集落の中心で身近かな所であった。
 
 
〇弥生時代(紀元前3~5世紀―紀元後3世紀中頃)
 ・祖霊信仰・・・稲作を始めた祖先への感謝と祖先の霊魂の祭り。
 ・埋葬形式は時期や地域ごとに多様な葬送形態が見られる。大型墳墓の出現。
 ・棺の使用が主となり、屈葬から伸展葬が広まる。
 ・埋葬場所は居住地から離れた場所になり、生活空間と死後の世界が離される。
 ・農耕社会が成熟し階級関係が生まれ、王が登場し小国家が誕生する。
 
 
〇古墳時代(3世紀中頃~7世紀)
 ・初期の大和政権は権力の象徴としての巨大古墳を必要とした。
 ・円墳、方墳、前方後円墳など多様で大規模な古墳が出現した。10万基超。
 ・古墳と埴輪の役割は死後の世界を可視化した模造品であった。
 ・この時代の特徴は殯(もがり)と新たに火葬が始まったことである。
 ・中央集権体制の強化と支配者の世界観の変化により古墳時代は終焉を迎える。
 ――次回は奈良時代~現代の墓制と世界の墓制に目を向けてお話します―—
 
(会員 福井 大作)
(広報部 岸本 幸子)
 
 
 
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