第115回研究発表会報告、 奥野 照夫会員、菊井 俊彦(21.9.9)
2021.09.15
第115回研究発表会報告、 奥野 照夫会員、菊井 俊彦(21.9.9)
YouTube 期間限定 9月17日(金)午前10時から9月23日(木)午後5時まで
メール会員のみ特別公開
◆日 時:令和3年9月9日 午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 『翁草』自筆原本の確認作業 奥野 照夫 会員
2.「土御門大路(上長者町通)」を歩く 菊井 俊彦 会員
◆参加人数:ひとまち 21名
第1部は、 『翁草』自筆原本の確認作業 奥野 照夫 会員です。
江戸時代中期、京都東町奉行所の与力職であった神沢杜口は、随筆家であり俳人であった。神沢杜口が著した『翁草』は当時の記録や貴重な書物を集めたもので、多くの人がこれを閲る事を望み、多数の写本が作られた。
明治の末、池辺義象が『翁草』を翻刻出版したが、池辺義象自身この冒頭で「原本が存在しないので、幾つかの写本からこれを編した」と書いている。
従って真偽に疑問を持たれる部分が多くあった。
この『翁草』の原本が三十年以上前に発見されていたが、何故かこの原本について調査研究された記録が残されていなかった。
この原本を捜し当て、原本確認作業を行ったが、主に押されていた八種の印から、自筆原本と確認できた。
この八種の印の内六種の印は『赤城義士編参考』(京都暦彩館藏)に押された印と内容、寸法とも同一であると確認できた。
『赤城義士編参考』はこれまで神沢杜口唯一の自筆本とされてきた書である。又この『翁草』が杜口の生家入江家に遺されていたという事実も、原本である事の有力な証である。
今回の発表では、単に原本確認の証明だけでなく、関連する杜口の著書『赤城義士編参考』や『其蜩庵杜口発句薮』等も簡単に紹介した。
特に『其蜩庵杜口発句薮』には七百五十を超える杜口の句があるが、これらの句には多くの前書きが書かれており、『翁草』では得られなかった杜口に関する情報が得られているが、これ等を読む事により、これまでの杜口のイメージが大きく変わった。
自筆原本の発見により、『翁草』あるいは「神沢杜口」の研究の原点が定まったと言えるが今後この『翁草』原本を中心に杜口の研究が進められる言になるが、今少しこの原本の研究が必要である。
(会員 奥野 照夫)
第2部は、「土御門大路(上長者町通)」を歩く 菊井 俊彦 会員です。
土御門大路(10丈)は平安宮の左京域では上東門、右京域では上西門に通じている東西の大路です。この上東門・上西門は屋根・石階の構造体を持つ「宮城十二門」と違い、平安宮北辺坊に建てられた倉庫群への搬出入用の通用門として作られていますので構造体はありません。現在の上長者町通に該当するとされています。
①現在の京都御苑内の土御門大路は平安中期以降、藤原道長の土御門殿をはじめ村上源氏の邸宅の建ち並ぶ地域でした。また道長の法成寺の北側には、紫式部が『源氏物語』を書いたとされる堤邸もありました。そして現在、七本松通一条上ルにある清和院も鎌倉期には四町規模の寺院としてここにありました。特筆すべきは、元弘元年(1331)光厳天皇は土御門東洞院殿を内裏と定められましたが、これが現在の京都御所につながる内裏となっています。
織田信長は焼き討ちした上京の絹屋町を内裏南側に移転させて下京並の惣構を構築させると同時に、内裏の東側に公家町を形成する許可を天皇から得ています。しかし信長が構想した公家町の形成ですが豊臣秀吉によって実行されています。さらに秀吉は秀頼のために「北は土御門より南へ六町、東は京極より西へ三町」の広大な京都新城を構築しました。
②平安京の烏丸通・大宮通間は諸司厨町として下級官人・課役民の生活する場所でしたが、平安宮の衰微とともに諸司厨町も衰退して平安中・後期には町人による町場化や公家による宅地化が進んでいきます。道長の全盛のころ、その権力を背景に一時代を築いた安倍晴明の邸宅も左京北辺三坊二町西半部にあったと考えられています。
また諸司厨町の衰退によって機織技術が織部町→大舎人町→大宿直と町人化する課役民などによって拡散されて、座の源流になったという指摘もなされています。諸司厨町の地域は上京の惣構の南限土御門通、下京の惣構の北限二条通の間に位置していますので、戦乱によって大きく荒廃しましたが、秀吉の聚楽第・徳川家康の二条城の建設による城下町化によって大きく復興をとげていきます。
③平安宮の内裏はたびたびの火災のために天皇が里内裏に常住するようになり放置・荒廃が進み、安貞元年(1227)の火災による焼亡後は廃絶してしまいます。そして平安宮は内野と呼ばれる荒野と化し、神祇官・太政官庁・真言院・神泉苑の四箇所霊場を残すのみとなってしまいました。それも聚楽第・二条城築造により平安宮の機能は消滅します。先の諸司厨町地域の復興は聚楽第・二条城築造による平安宮の消滅の裏返しともいえるのです。
秀吉は天正11年(1583)、信長の一周忌法要を済ませると大坂城築造に取りかかります。このとき秀吉は合せて朝廷に大坂への遷都を申入れたようですが実現できませんでした。そのため京都の内野に公儀の政庁として聚楽第の造営をはじめて天正15年(1587)に完成させています。
(会員 菊井 俊彦)
(広報部 岸本 幸子)