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第2回 都草講演会 靈明神社八世神主 村上 繁樹氏(18.5.18)

2018.06.09

第2回 都草講演会 靈明神社八世神主 村上 繁樹氏(18.5.18)

◆日 時 平成30年5月18日(金)  13:10~15:00

◆場 所 ひとまち交流館 京都 3階第5会議室

◆講 師 靈明神社八世神主 村上 繁樹氏

◆タイトル 「幕末維新殉難志士を弔祭した志の聖地靈明神社創建」

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  洛東霊山に靈明神社があることを知る人は少ない。
今回五月に講師としてお招きいただき、神社の由緒沿革を語る機会に恵まれて有り難く感謝申し上げます。
ここ数年は、大政奉還、王政復古、明治の改元とこの後も「○○百五十年」が続きます。
靈明神社にもこうした歴史をよくご存じで来社される参拝者が増えて参りました。
「新撰京都古今全図(明治二八年)」に霊山に「勤王家長州藩戦士者ノ墓」「神葬場」「靈明社」「招魂社」と並記した明示のある神社であったのです。現在は神葬祭を承り、墓地を提供できるお社であります。

天誅組の理念「一心公平無私」

天誅組の理念「一心公平無私」

 さて、霊山は時宗正法寺の寺域でありました。幕末文化六年に村上都愷(くにやす)という一個人が千坪もの藪地を正法寺から買い取り、神道葬祭の場として奥都城(墓地)を開拓したのです。
江戸時代の寺請制度のもとでは全ての人は寺の檀家であって、神葬祭は許されません。
光格天皇の御世、主殿寮史生従六位上の村上都愷は白川家門人にして国学者であり「靈明舎」を主宰し、「我が国は神国なれば誰人も惟神の道によるべきこと」と神道を説きました。

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神道葬祭こそ、日本人のあるべき真の姿であるとの決意を以て、神祇管領吉田家神葬許可状を得て、靈明神社を創建したのです。所司代からは睨まれ、佛教本山からも迫害を受けながらも、門人達の神葬祭執行を行い、神道式鳥居が立つ奥都城に埋葬を密かに続けていきました。
創立者の思想は二世美平、三世都平に受け継がれ、文久年間、長州毛利家と深い繋がりができ、幕末維新の功臣・殉難者の霊を鎮める弔祭が次々とあったのです。
慶応・明治を迎え、靈明神社敷地には諸藩の招魂社が建立され、奉祀顕彰の濫觴となっていった歴史やエピソードを講演致しました。

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 文久二年四月十三日松陰先生門下の松浦亀太郎(松洞)が粟田山で長井雅楽の暗殺に失敗し、自刃し久坂玄瑞によって霊明神社に埋葬されたこと。同年十月十七日は蹴上の「粟田山屋敷」で久坂玄瑞が主宰する吉田松陰先生慰霊祭を長州藩有志が挙行します。そして特記すべき葬祭として、同年閏八月八日長府毛利家藩士船越清蔵が周防絵堂村で死去したため、十一月十八日に船越の「石碑ノ台石」もできて「曇華院家士吉田玄蕃祭主ノモト君公ヨリ御使者」ならびに久坂玄瑞をはじめ「長藩五十人斗リ参詣」した弔祭があったのです。

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また靖國神社建立の源流となった弔祭は同年八月「戊午以還国事二死スル者ノ礼葬及流放以下ノ復籍等内旨数条」の仰せ出により、十二月十四日在京の志士六十余名が「靈明舎」に集い、國事に殉じた同志の「靈魂祭」(祭主白川神祇伯家臣古川美濃守躬行)を祭文と一緒に紹介しました。これなどは知られていない歴史でありましょう。藩をまたぎ、京都の有力町人も参列する画期的な祭事は、維新回天に大きく貢献したのでした。坂本龍馬中岡慎太郎藤吉の弔祭が靈明神社だったことはさすが都草のみなさんはよくご存じでありました。
 明治十年十一月に靈明神社の奥都城約千九百坪が上知(国有化)され、京都霊山招魂社の管理となっていったのでした。当日のご清聴も有り難うございました。(記事 靈明神社八世神主 村上 繁樹氏)

ご先祖様が18歳の時に作成された図案を靈明神社200年祭記念の一つとした紙袋

ご先祖様が18歳の時に作成された図案を靈明神社200年祭記念の一つとした紙袋

                           (広報部 岸本 幸子)