第3回 都草講演会 城郭談話会 福島 克彦氏(18.11.5)
第3回 都草講演会 城郭談話会 福島 克彦氏(18.11.5)
◆日 時 平成30年11月5日(月) 13:10~15:00
◆場 所 ひとまち交流館 京都 3階第5会議室
◆講 師 城郭談話会 福島 克彦氏
◆タイトル 「明智光秀と洛中洛外」
再来年の大河ドラマに明智光秀が取り上げられることが決まり、ご講演依頼が殺到する前にぜひ福島先生に
お話していただきたいと、今回のご講演が実現しました。
快くお引き受けいただいた上に、「都草の皆さまに興味をもっていただけそうな内容で」と、ご提案いただい
たテーマが「明智光秀と洛中洛外」。
私たちのとても身近な点から光秀を見ることができました。
まずは、光秀が普請した宇佐山城、坂本城、余部城(丸岡城)、福知山城、周山城、亀山城など、画像を使っ
て中世城郭専門家の目から各城の特徴や見所を、続いて、今回のテーマとなる「本能寺の変」のルートを、現
在の様子と当時の様子とを見比べながら説明下さいました。
本題はなぜ、「本能寺の変」が可能になったか・・・
当時の日記や手紙などの一次資料をご紹介いただきながら、光秀の実像(こころの動き、どのくらい京都を知っ
ていたか、信長への気の遣いよう)を追って下さいました。
光秀は天正10年(1582)6月2日、本能寺の変で主君 織田信長を倒し、同年6月13日、山崎合戦で羽柴秀吉に敗
れ、山科で暗殺される・・・誰もが知っている有名な歴史の一場面ですが、光秀の前半生はほとんどといってよ
いほど分かっていないそうです。
織田信長が足利義昭を奉じて上洛する永禄11年(1568)9月以降になってようやく、信長の家臣団(奉行衆)の
一人として、連署状などに光秀の名前がみられるようになるそうです。
信長と義昭の対立が決定的となったことで信長の完全な部下となった光秀は、信長の京都での御座所を築くことを
念頭に、吉田山に「御屋敷」構築を勧めていたことが土地の所有者である吉田兼見の日記からわかります。
また、薩摩国から京都、伊勢参りにやってきた島津家久の旅日記には、主君信長の長篠合戦中は酒宴に入らないと
光秀が辞退した事などが書かれており、信長への気遣いや遠慮、さらにはそれをあからさまに公にする光秀の人間
性がよく出ている史料だと福島先生は指摘されています。
さらには、丹波と坂本など京都周辺で信長に仕えていた光秀は、坂本城普請のために、丹波地域の人夫にどの道を
通って坂本まで行き来することなど、京都へのルートが細かく理解出来ているとこと、家来たちに信長の「御座
所」を強く意識させるなど、信長への忠誠心の現れ、しいては怯えの裏返しとみることも出来る資料だとご紹介下
さいました。
本能寺の変直前、信長とともに命を落とした織田信忠が、森蘭丸におくった書状(信長の動きがすべてわかる内
容)が、なぜか明智の家臣である小畠家の文書の中で見つかったかなど、最後は私たちに大変興味深い問いかけを
残して下さいました。
再来年の大河ドラマ、まだ分かっていないことの多い光秀がどのように描かれるのか、今からとても楽しみになり
ました。
(記事 副理事長 松枝 しげ美)
(広報部 岸本 幸子)