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活動内容

第132回研究発表会報告、横井 剛会員、豊田 博一理事(24.1.26)

2024.02.02
第132回研究発表会報告、横井 剛会員、豊田 博一理事(24.1.26)
 YouTube 期間限定 2月2日(金)から2月8日(木)午後5時まで
    会員のみ限定公開 
 
◆日 時:令和6年1月26日 午後1時10分~午後4時00分
 
◆場 所:ひとまち交流館 京都 2階
 
◆研究発表:1.平安時代の婚姻制度〜藤原道長を中心に〜 横井 剛 会員
      2.平安時代のうんちく話1 豊田 博一 理事
 
◆参加人数:ひとまち 22名
 
 
第1部は、平安時代の婚姻制度〜藤原道長を中心に〜 横井 剛 会員です。

平安時代の婚姻制度の研究は、高群逸枝の『招婿婚の研究』『日本婚姻史』から始まり、多くの妻の中には優劣はなく、正妻の決定は事後的に決まると論じて以来、「一夫多妻」と理解されてきました。しかし、近年の研究では、工藤重矩に代表される、律令では重婚が禁止されていたため法律的には「一夫一妻」説が主流です。
第一章では、先行研究を踏まえ、平安時代の婚姻制度について発表しました。

 
内容
①平安時代の結婚の様相
②一夫一妻制と一夫多妻
③正妻と妾(副妻)
④離婚
 
平安時代の婚姻制度は未だ解明されておらず研究者の中で解釈が分かれていることを説明。それぞれ通説と先行研究を交え、婚姻法、律令の実効性の有無、婚姻儀式、正妻の決定時等を紹介しました。

今回の発表では日本法制史の研究者達の研究成果、古代中国の律令に詳しい胡潔の論から、離婚が律令七出以外の理由で行われたことを実例として明示し、離婚に実効性が無ければ婚姻にも無いとし、平安時代の婚姻制度は、一夫一正妻多副妻多妾としました。

 

第二章は藤原道長の女性関係から、正妻源倫子と副妻源明子、妾と思われる女性を紹介し、倫子正妻、明子副妻その他の女性を妾としました。これは源重光女と道長の子・長信(後の東寺長者)が認知されていないことからになります。つまり女御は妾になり得ても妻にはなれないと判断しました。こちらは『源氏物語』の浮舟を例にして説明しました。

 
最後に、活字史料に登場するのが稀のため、倫子の影に隠れ、実体が知られていない源明子について発表しました。
その子女は右大臣(藤原頼宗)になる者もいれば、現在の冷泉家の祖(藤原長家)となる者がいます。女性では女系ながら摂関家、皇室に血筋が続いています。
源明子とその子女が京都の歴史と文化に遺した足跡は、倫子所生の子女にも勝らずとも劣らないことを皆さんに知っていただく焦点を当てました。(会員 横井 剛)
 
 


 
 
 
第2部は平安時代のうんちく話1 豊田 博一 理事です。
1 平安時代を様々なデータを数値化し、またグラフ化することによりビジュアルな資料作りを目指しました。
〇平安時代の平均寿命? 
2022年の平均寿命 男性が81.05歳、女性が87.09歳
平安時代の平均寿命 推定も不能
 平安時代の天皇の平均死去年齢                42.9歳
 平安時代の公卿の平均死去年齢(公卿補任613件より算出)    59.1歳

平安貴族の昇進速度、天皇の即位年齢、崩御年齢の推移、後宮の人数、内訳推移、後宮の人数と出生者数推移、天皇一覧(母親の出自等)、公卿の氏別構成割合推移、大納言の氏別構成割合推移、天皇の家系図、藤原氏家系図、里内裏の分布図(配布資料を参照してください) 研究発表会配布資料豊田

2天皇家の直系承継と兄弟承継
〇天武天皇以前までは承継者には経験と実力が条件(一定の年齢30?)
 ➡兄弟承継が多い
背景 有力豪族(軍事力を有する)が多くいるなかで天皇には経験と実力が必要とされた。
➡乙巳の変(645年)により蘇我氏主流を滅ぼし、以降天皇家の力の増大を図る。律令国家の建設により、豪族の官僚化(貴族化)と軍事力の一元化。
〇持統天皇以降は直系承継が基本
背景 律令制が確立され、豪族は貴族になり、天皇の力が突出➡天皇制の定着。承継者には経験と実力が条件は基本的に続く
前期 ➡女帝による中継ぎが多くなる、皇族との協調による政治、➡後見となる有力貴族(藤原氏)を育てる。
ま聖武天皇以降 ➡持統天皇系以外の有力皇族を排除・断絶、藤原氏の力が増大、承継する持統天皇系皇族がいなくなった。
〇桓武天皇(737年~ 806年)
桓武系統を如何に定着させる
➡母親の出自低く、自分の即位がイレギュラーである事を認識。
➡遷都と蝦夷征討による権威の確立、自分の皇族を増やす(子供約40人)、藤原氏をバランス良く重用、弟、早良親王を排除、子供世代の兄弟承継を計画。
〇承和の変842年 兄弟承継➡直系承継へ
嵯峨上皇崩御の2日後に起った謀反事件。伴健岑、橘逸勢らが、第54代仁明天皇(嵯峨天皇皇子)の皇太子恒貞親王(淳和天皇皇子)を奉じて東国に赴こうとする謀反計画があったとされた?

 ➡ 恒貞親王は廃皇太子、道康親王(仁明天皇皇子のちの第55代文徳天皇、母は藤原冬嗣の娘順子)が立太子。藤原良房が権力を握る端緒。この後文徳天皇と娘明子との間に生まれた第56代清和天皇の人臣最初の摂政となり藤原氏の摂関政治が始まる。藤原良房が陰謀を企て、恒貞親王を陥れ、またこの事件は藤原氏の他氏排斥の始まりと言われるが???

〇藤原氏による他氏排斥の初めと言われるが
ターゲットになったのは恒貞親王と親王を支えるグループ、メインターゲットは藤原愛発(北家大納言)、藤原吉野(式家中納言)、文室秋津(参議)。首謀者とされた伴健岑、橘逸勢は下級貴族で首謀者たり得ないし、他紙排斥のターゲットにもなり得ない。
橘氏君は大納言のままであったし、844年には右大臣847年に亡くなるまで藤原良房の上位。この頃には、すでに藤原氏のターゲットになるような氏は、皇族以外にはいない。

平安時代を通じて他氏は押し出されたというべきではないか?同様に皇族系、藤原氏傍流も押し出される

〇藤原良房が企てた陰謀事件と言われるが
良房はこの時点で、公卿のナンバー6、この事件の首謀者たりえない(良房は計画に関与)。檀林皇后、仁明天皇の関与なしには考えられない(天皇からの視点)。仁明天皇の子孫に確実に天皇位が継承されることを目指した。この事件以降、直系承継が基本となるが、諸事情で、時として兄弟承継、両統迭立が行われる。直系承継を担保する後見人として、藤原良房が選ばれ、この後頂点へ。(理事 豊田 博一)
 
(広報部 岸本 幸子)