わくわく倶楽部(フィールドワーク)松原通を歩く(其の2)(17.12.17)
わくわく倶楽部(フィールドワーク)
京都ミステリーロード 松原通を歩く(其の2)
日 時: 2017年12月17日(日) 10:20~12:20
参加者: 13名
出 発: 松原橋(旧五条大橋)
松原橋(旧五条大橋)は、清水寺参詣の玄関口
『清水寺参詣曼荼羅』(16世紀後半・市神神社中嶋家所蔵)をみると、旧五条大橋は中洲で二つに分かれてい
ます。その頃の鴨川の幅は260mもあり、中洲には安倍晴明が建て、墓所とも云われる法城寺・大黒堂や茶屋
が描かれ、勧進僧が柄杓で通行料を徴収している様子が窺えます。また、橋の上には弁慶と牛若丸が描かれて
います。
幸福堂老舗
看板商品は、五条ぎぼし最中・弁慶(大)と五条ぎぼし最中・牛若丸(小)。
石﨑さんから、こちらで購入した豆餅をいただきました。柔らかくて、とても美味かったです。石﨑さんご馳
走様でした。来年もよろしくお願いします。
松原通は平安京の五条大路にあたり、八丈の道幅があり、寺町通は東京極通にあたり、十丈もの道幅があったそうです。当時、この辺りの住人は藤原俊成・定家親子や国宝神護寺三像を描いたと云われる藤原隆信でした。
明和2年(1765)より明治末まで、この地に大丸松原店がありました。
新選組がだんだら模様の羽織を誂えに来たお店とか…。
明王院不動寺は平安京の四岩倉の1つで『南岩倉』と書かれた扁額が掲げられています。
ちなみに、北岩倉は山住神社・西岩倉は金蔵寺・東岩倉は観勝寺だそうです。
この四岩倉を線で結んでも四角形にはならないように思います?
祇園床
松原中之町の会所で奥の庭に頓宮祇園社が祀られています。
毎年7月14日14時より八坂神社の神職や長刀鉾の稚児などを招いて『古式一里塚松飾式』が行われます。30分
ほどで神事は終わり、その後一般の人にもお神酒や薄茶が振舞われるそうです。神饌のお飾りも珍しいもの
で、一度お参りに行かれてはいかがでしょうか。
朝顔の墳
松原通麩屋町西入る南側の『まきの整骨院』の奥にあるそうですが、非公開です。
◎源氏物語・朝顔 (須山会員作成資料)
光源氏のいとこで、父の式部卿宮も二人の結婚に賛成していました。朝顔に以前より光源氏は好意を持ってい
て、賀茂の斎院を父の死去により退下した後も、光源氏が申しでをしますが断り続けます。
朝顔は、当時通い婚で、待つということのつらさと内親王は一般に独身で生涯を終えることが多く、斎院で
あった朝顔はそういうプライドから結婚拒否の思いもあった。
さらに西へ歩くと個性的なお店が続きます。
夕顔之墳
六条御息所の生霊に殺された夕顔の墳。毎年8月15日に法要が営まれています。
◎源氏物語・夕顔(須山会員作成資料)
光源氏が乳母、惟光の母の病気見舞いに行って、隣の家に住む光源氏のライバルの頭中将の思い人で北の方の
脅迫におびえて隠れ住んでいた女性と知り合う、その後河原の院で、光源氏と逢瀬の時、六条御息所の怨霊に
殺され、鳥辺野で、高徳の僧による葬儀が行われる。物語の中で、後に登場する女性玉鬘は夕顔の娘である。
縁切の井戸として有名な鉄輪の井戸
長香寺
徳川家康の側女・於古知也(おこちや)の発願により建てられた浄土宗のお寺で本尊阿弥陀如来は恵心僧都の作
と云われています。家康の側近で、近畿地方の大工頭を務める中井大和守正清らによって、手持ちの方広寺大
仏殿の残木を用いて建てられ、それ以来中井家の菩提寺となっています。また、一族の中井八左衛門利清の息
女が紀州徳川家に側女として入り、八代将軍吉宗の生母となったため将軍の外祖父の墓所として、高い寺格を
誇る寺となりました。
燈籠町
平重盛が東山小松谷の邸宅内に建てた四十八間の燈籠堂を室町時代にこの地で再興。
花園天皇により浄教寺と改称され、現在は高島屋京都店の西に移っています。
ちなみに、源平盛衰記巻11燈籠大臣事によると、燈籠堂は、十二間四方合わせて四十八間になる建物で、一間
毎に燈籠と阿弥陀仏 が安置され、16~20歳の選りすぐりの絶世の美女48名が、1燈ずつ火を掲げ『心のやみ
の深さをば、燈籠の火こそ照らすなれ 弥陀の誓ひをたのむ身は 照らさぬところはなかりけり』と唱えなが
ら堂の周囲を歩き礼賛したといわれています。
(報告:藤川由美子会員)
(写真:熊谷喜輝)
(広報部:熊谷喜輝)