丹波支部行事報告「光秀と桜」(19.4.13)
2019.04.28
丹波支部行事報告「光秀と桜」
*日時 平成31年4月13日(土)8:30~17:00
(報告:丹波支部部長 井上 享一)
「ときはいま・・・・」と、光秀は「愛宕百韻」の連歌の会で、発句をスタートさせました。その時、光秀の胸中には「本能寺」への決意があったのかどうか・・・・。
そして、我々丹波支部は、日本中が満開の桜便りに沸いている中を、まさに「ときはいま・・・・」とばかりに、究極の桜を求めて京北町を訪れました。さて、そこで見つけた光秀ゆかりとは・・・・?
今回、4月13日(土)、丹波支部の皆さまプラス2名のゲストの方々とともに、中世戦国期の歴史に思いを馳せる旅を催行しましたので、ご報告いたします。 (参加者は、丹波支部から小松理事長、熊谷副理事長、中島さん、岩城さん、阪東さん、藤田さん、川田さん、井上(享)と、ゲストの西野さん、藤井さんの合計10名です。)
その行程は、
JR亀岡駅出発 ~ 宇津城跡 ~ 周山城址(慈眼寺) ~ あやめ塚 ~ 賀善寺 ~ 常照皇寺 ~ 山国神社 ~ JR亀岡駅帰着
(1)宇津城跡: 光秀の丹波平定の端緒となった宇津城の攻略。光秀により攻め滅ぼされた戦国大名宇津氏は、美濃国守護土岐頼遠の子孫で、清和源氏土岐氏の流れ。いわば、光秀の遠縁にあたります。
(2)周山城址(慈眼寺): 宇津城攻略の後、光秀は周山城を築城します。この時、同時に辺り一帯を「周山」と命名します。周山近辺では、光秀に対する思いは篤く、特に「慈眼寺」に密かにそして大切に保存されてきた「光秀の木像坐像」は、逆賊光秀が目立たないように、墨で真っ黒に塗られ、明智家の桔梗紋も隠されています。ところが、すぐ東の山国郷では、この周山城の築城に際し、大規模な労役や資材(墓石、寺の柱など)の徴発に会い、また、全域の焼き討ちなど苛烈な仕打ちを受けたため、現在に至っても人々は複雑な感情を抱いていると言われています。
(3)あやめ塚: 平安時代末に、鵺(ぬえ)退治で有名な源頼政は、その恩賞として土地と美女の「あやめ御前」を天皇から貰い受けました。土地は矢の代ということで「矢代」と命名されました。その後、頼政は平家打倒の兵をあげましたが、宇治平等院「扇の芝」で自刃。残された「あやめ御前」は、この矢代でさびしく余生を送り亡くなったため、土地の人が供養塔を建てて弔ったという事です。
(4)賀善寺(がぜんじ): この日(4月13日)は、33年に一度の本尊ご開帳の日。それはそれで大変有り難く拝ませていただきましたが、実はもう一つ本来の目的がありました。このお寺の本堂の柱は、光秀が周山城築城にあたって、まさに徴発しようとしていたのですが、たまたま丈が短かったのでそれを免れたと伝わっているのです。直径40㎝程の丸柱20本には徴発対象を示す焼印がはっきり残っていました。
(5)常照皇寺: 南北朝の時代に光厳上皇が開いたお寺です。開山堂にある阿弥陀三尊の脇侍、観音菩薩と勢至菩薩は、大原の三千院の阿弥陀三尊脇侍と同様、「大和坐」(やまとずわり)となっています。そして、目指していた国の天然記念物に指定されている「九重桜」は、ほぼ八分咲きといったところ。また、「左近の桜」「御車返しの桜」はまだつぼみ程度でした。
(6)山国神社: 明治維新の戊辰戦争で活躍した山国隊83名が、ここ山国神社で出陣式をあげ、東征を開始しました。この時の活躍が契機となって、「時代祭」先頭の維新勤皇隊列が発足しています。昨年の「明治維新150年」の「時代祭」には、100年ぶりにこの山国郷から「ほんまもん」の維新勤皇隊列が奉仕されました。
最後に、広い丹波の領域を西へ東へと尋ね歩くと、光秀の評価は全く異なったものに行き当たります。未だ定説が確立しない「光秀像」ですが、それだけに奥が深くて興味が尽きない、不思議な存在です。これからも歴史学の常識にとらわれず、新しい光秀を探しに出かけていきたいと思っています。(今回の桜では、「弓削川沿い土手」の桜が満開で見事でした。)
(写真:熊谷喜輝)
(広報:熊谷喜輝)