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活動内容

丹波支部行事 「丹波篠山城」を訪ねて(18.4.15)

2018.05.07

都草 丹波支部行事 「丹波篠山城」を訪ねて

日 時:2018年4月15日(日)
参加者:総勢8名
行 程:9時JR亀岡駅出発~篠山城~昼食~歴史美術館~青山歴史村~春日神社~17時JR亀岡駅

  丹波支部による「丹波の城を攻略しよう」シリーズの一環として、今回は兵庫県篠山市にまでやってきました。丹波国は大変広域で、京都府だけでは納まりきらず、このあたりも含まれています。丹波国に含まれている限りは、丹波支部の担当テリトリーでありますので、「攻略」しないわけにはいかないわけです。

)篠山城

篠山城

 前夜からの雨がまだ降り止まぬ中を、亀岡駅から出発して一路篠山へと向かいます。「湯の花温泉」を過ぎてゆったりと田園風景の中を進んでいくと、「天引トンネル」を越えて、あっという間にもう篠山市に入っていきます。「デカンショ街道」の標識を確認していると、篠山城跡に到着です。ゆっくり走っても1時間かかりません。

ガイドをして頂いた相原様

ガイドをして頂いた相原様

1. 篠山城の意義について
 慶長五年(1600)、家康は関ヶ原の戦いで勝利を治めますが、大坂城にはまだ豊臣秀頼が残っており、西国には毛利や島津などの豊臣恩顧の大大名が存在していました。したがって、征夷大将軍に任ぜられ、徳川幕府を開いたと言っても、家康の心中は安閑とはしていられない状態でした。このため、
① 西国外様大名に対する抑え
 まず山陽道の要所を抑えるために姫路城を築き、自らの娘婿の池田輝政(家康の二女富子【督姫】の夫)を配置し、そして山陰道の抑えには篠山城を築いて、自らの実子である松平康重を配しました。(家康の侍女を懐妊3か月で賜ったのが、家臣の松平康親で康重の養親)
 この二か所には、家康は自分を裏切らないという絶対的信頼を寄せる人物を選んだと思われます。代々の城主は改易があったとしても、いずれも譜代中の譜代大名が配置されてきました。もしも西国大名が謀反を起こしたときには、その防衛の第一線を、この二つの城は担うことになるのです。
② 天下普請
 さらに家康は、西国の外様大大名の財力を減少させるために、大規模な天下普請を始めます。江戸城、駿府城の修築や、二条城、姫路城の築城、さらにこの篠山城、名古屋城も新築しますが、全て西国大名がその労力・資金の負担をさせられることになります。これによって、諸大名の体力が大幅に損なわれ、慶長十九年(1614)の「大坂冬の陣」と翌年の「夏の陣」には、結果的に諸大名の内で豊臣方への参陣は物理的に不可能となっていたようです。(実際、豊臣方の軍勢約十万のほとんどは、真田幸村(信繁)を筆頭とする全国の浪人が主力でした。)

埋門(南)

埋門(南)

③ 天守台はあるのに、なぜ天守閣を築かなかったのか(天守閣は最初からなかった。)
 諸説があるようですが、一番有力な説は、後に控えている名古屋城の築城を急いだためと言われています。建築用材も既に確保されていたようですが、助役大名を早急に名古屋に振り向けるために天守閣の建築を断念したということです。

天守台跡

天守台跡

天守台跡にて

天守台跡にて

2. 篠山城の築城
 慶長十四年(1609)、姫路城がほぼ完成した時期に、新たにこの篠山の地に平山城を築くことに決定し、普請総奉行に姫路城城主池田輝政を、縄張奉行(設計)に藤堂高虎を宛てます。
 この築城に駆り出された助役大名は、福島正則、毛利秀就(ひでもと)、浅野幸長、加藤嘉明などで、夜を日に継ぐ突貫工事の結果およそ半年で本丸と二の丸の石垣が出来上がったのです。そしてその年の十二月には初代城主として、松平康重が八上城から移転してきています。その後、天守閣を除く、それ以外の上物が約200日余で完成しているという状況で、いくら天下普請とは言いながら、とんでもないスピ-ドで作り上げられたものです。ただ、本丸の井戸を掘るのに、岩盤に苦労して2年くらいかかっています。石垣積には、専門技術者集団で有名な近江坂本の穴太衆を連れてきて、見事で堅固な野面積を完成しています。

大書院の中の模型

大書院の中の模型

3. 青山家のこと
 9代目城主は、丹波亀山城から移封されてきた青山忠朝(ただとも)です。この青山家は、家康の祖父の代から徳川家に仕えていた譜代中の譜代です。そして、秀忠の養育係(めのと)を務めたり、家光の教育係などを務めた家柄です。
 12代目城主となった忠裕(ただやす)はいわゆる名君で、幕府の老中を30年間も務めました。また、領民の信望も篤く、篠山の産業を振興し、治政も安定していた時期になります。

青山神社

青山神社

 明治維新に際しては、「鳥羽伏見の戦い」が勃発した時、篠山藩京都留守居がはるばる飛脚を飛ばしてこの情報を藩に伝えました。これを受けて山陰道を藩士864人が時代遅れの火縄銃で武装して出発しました。そして亀山(今の亀岡)まで来たときに、京都方面から同藩の使者が馬に乗ってやってきて、「徳川が負けたので、篠山まで引き返せ」と言ったので、部隊はそのまま回れ右をして、もと来た道を戻っていったそうです。
 その後1月9日になって、西園寺公望を総督とする山陰道鎮撫使がやってきます。結果的に、鎮撫使一行に対して、篠山藩としては勤皇の誠意を訴え、降伏文書に血判を押して、城を明け渡すことにしました。というわけで、この城は全く戦いというものを経験せずに現在に至っています。
 したがって、大書院も建築当初のものがそのまま残っていたのですが、残念ながら、昭和十九年に失火により焼失してしまいました。現在の建物は平成十二年に復元再建されたものです。

大書院入口-

大書院入口-

篠山散策の頃には雨もすっかり上がって、非常にすがすがしい天候となりました。今回、実際に天守台や現在まで残っている貴重な東と南の馬出を見学し、さらに保存状態のいい武家屋敷群を歩いて、400年の昔にタイムスリップしたような感覚でした。

安間家資料館

安間家資料館

歴史美術館

歴史美術館

青山歴史村

青山歴史村

春日神社

春日神社

 今年は陽気のせいで、桜はほとんど終わっていましたが、お昼には「お花見弁当」を楽しみました。さらに、「お土産タイム」も確保しましたので、ご参加いただいた皆様にはご堪能いただいたのではないかと思います。

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ビルの上に巨大なイノシシ

ビルの上に巨大なイノシシ

 どうも大変お疲れ様でした。また、次回もご参加ください。

(報告:丹波支部長 井上享一)
(写真:熊谷喜輝)
(広報:熊谷喜輝)