第115回都草歴史探訪会 西部会 「薩長と維新三傑の歴史をめぐる」(24.11.15)
第115回都草歴史探訪会 西部会
「薩長と維新三傑の歴史をめぐる」
~広辞苑と木戸孝允・徳川慶喜とのつながりは?~
日 時:2024年11月15日(金) 曇り時々小雨
集合場所:地下鉄鞍馬口改札前 12:00受付開始
第1グループ 12:30出発 第2グループ 13:00出発
*重山文庫の入館人数の都合で参加者を2グループに分けて、重山文庫と御花畑屋敷跡は訪問順序を入れ替え、上善寺で全員一緒となる。
コ ー ス:重山(ちょうざん)文庫(広辞苑編集者・新村出(いづる)博士旧宅=旧木戸孝允邸)→ 御花畑屋敷跡(近衛家別邸・薩長同盟所縁之地)→ 上善寺(長州藩士首塚・地蔵堂)→ 薩摩藩士戦死者の碑→西郷隆盛寓居跡→大久保利通寓居跡
参 加 費:1、000円
参 加 者:会員43名 役員・担当者10名 合計53名
重山文庫
重山文庫は広辞苑の編集者・新村出博士(以下 博士)の自宅を活用した施設で、この建物は鴨川西岸(現在の中京区土手町)にあった木戸孝允邸の母屋を、大正12年に新村家がこの地に移築し居住したもの。「重山」は「出」の字が山を二つ重ねた形による。
博士は京都帝国大学で言語学講座を担当し、25年間にわたり同大学図書館長を務めた。昭和31年文化勲章を受章。48歳から92歳で生涯を終えるまでここで暮らした。
説明は2室に分かれて、博士の孫にあたる新村恭氏ら2人によって行われた。書斎では、『広辞苑』の初版から最新の第7版などが書棚に並べられ、机上には校正履歴や活版、おびただしい数の付箋がついた『広辞苑』第2版などが展示されており、これらをもとに編集作業の説明があった。活版時代でも約20万語も収録されていたのにはびっくり(第7版は25万語)。辞書を編む困難さと情熱を感じた。
また客間には、博士の遺品が展示されており、これらについて説明があった。徳川慶喜の写した博士の写真、大ファンだった高峰秀子との交流を偲ばせる遺品、趣味で集めた松ぼっくりのコレクションなどが展示されている。また山岡鉄斎の軸、勝海舟の書なども飾られており、新村家と博士の交流の広さや心の和む一面を知ることができた。
薩長同盟締結の地(近衛家別邸・御花畑屋敷・小松帯刀寓居跡)
薩長同盟は、慶応2年(1866)に御花畑屋敷(小松帯刀邸)にて坂本龍馬の斡旋により、薩摩藩小松帯刀と西郷隆盛、長州藩桂小五郎との間で締結された。2016年5月、郷土史家・原田良子氏によって、京都行政文書により御花畑屋敷の場所や規模、所有者などが発見され、御花畑が現在地に特定された。
上善寺
上善寺の由緒をはじめ、六地蔵巡りの鞍馬口地蔵(深泥池地蔵)や境内・墓地の概要をご住職からご説明され、通常非公開の鞍馬口地蔵や観音菩薩像を特別に拝観させていただいた。また鞍馬口地蔵と京都六地蔵巡りや六歳念仏について、さらに、墓地にある禁門の変の時に堺町御門で戦死した長州藩士を葬ったという長州人首塚碑や、墓がある室町(四辻)家や高倉家にまつわる江戸時代に起きた公家のスキャンダル(猪熊事件)について、説明があった。
林光院と鶯宿梅
相国寺塔頭の林光院は、足利尊氏が西ノ京にあった紀貫之邸跡に創建した寺院で、数回の移転を経たのち現在地に移った。紀貫之邸には、庭園にあった梅を詠んだ歌から鶯宿梅と名付けられた梅があり、この梅を代替わりしながら引き継いでいるという。続いて東側にある林光院境外墓地に移動。ここには蛤御門の変や鳥羽伏見の戦いで戦死した薩摩藩士72名を合葬した墓碑が建てられている。また、近世儒学の祖といわれている藤原惺窩の墓がある。
相国寺七重大塔跡
七重大塔は、足利義満が父義詮の追善供養と自身の権威象徴のために建立した。塔の高さは約109mで、日本建築史上最も高さのある木造建築物とされる。築後4年に落雷により焼失し、金閣寺の地に北山大塔として再建。その3年後に火災で焼失したので、再度相国寺の元の場所に建立されたが、文明2年(1470)に火災で焼失した。
西郷隆盛寓居跡
下塔之段町の一角に寓居跡碑がある。西郷隆盛は二本松薩摩藩邸に近いこの地を京都での活動拠点とした。西郷隆盛をはじめ薩摩藩士たちはこの寓居で会合を開き、幕末の重要な政治決定をした。
湯川秀樹旧宅跡
明治41年(1908)、湯川秀樹は1歳の時に父小川琢治の京都帝国大学教授就任に伴い下塔之段町のこの付近に移り住んだ。この地に住んだのはわずか1年ほどで、転居している。京都大学下鴨休影荘は秀樹が昭和56年に亡くなるまでの晩年を過ごした旧宅。
大久保利通寓居跡
大久保利通は、慶応2年(1866)正月から約2年間この地に居住した。この邸は石薬師邸と呼ばれ、藩内外での政治活動の拠点となり三条実美、西郷隆盛、木戸孝允らも訪れている。ここには御花畑屋敷から移築された茶室「有待庵」があった。後年この邸が大久保家を離れたこともあり有待庵の所在は不明であったが、2019年5月歴史研究家の原田良子氏によって確認された。その歴史的価値の重要性から原田氏は京都市にその保存を働きかけた結果、所有者から茶室の寄付をうけて京都市が岩倉具視幽棲旧宅に保存することとなった。
最後に歴史探訪会西部会への参画をお願いして解散となりました。参加者、担当者とも小雨の中ありがとうございました。
報告:高橋明俊会員
写真:須田信夫会員
広報;熊谷喜輝