活動内容

第97回 歴史探訪会東部会 「神々の宿る神楽岡を行く」(2022.5.24)

第97回 歴史探訪会東部会 「神々の宿る神楽岡を行く」(2022.5.24)

【日  時】 令和4年5月24日(火)13:00~16:00
【参加人数】 35名(欠席5名)  スタッフ8名
【コ ― ス】 吉田神社一の鳥居~吉田構(かまえ)跡~新長谷寺跡~神海霊社~山陰神社~大元宮~竹中稲荷神社鳥居・本殿~業平塚~霊元法皇御幸址~紅もゆる歌碑~茂庵入口       (茂庵は臨時休業のため、茂庵~谷川住宅は中止)

このコースは新型コロナの流行以前に企画し、まさに実施しようとした寸前に延期となりました。当時の企画から事情も変化し、少々リメイクして2年越しの実施となり、感慨深いものがあります。
当日は5月の爽やかなハイキング日和と言いたいところですが、30度を超える真夏日となりました。また、吉田山標高105mの散策のため、足元に不安のある会員の皆様は大変な思いをなさったことや、茂庵の臨時休業のため最後まで完遂出来なかったことを残念に思い、お詫びいたします。
 

吉田神社参道の説明をする武富幸治会員(左端)

吉田構跡
現在の参道は幕末に新しく作られたもので、それ以前は馬場でした。松林はその名残です。少し南に旧参道があり、吉田村の入口にあった枡形の形状がそのまま残されています。現場と航空写真とを比べ、熱心な説明に納得がいきました。

旧参道には、社家の建物が残っています。ひときわ立派な鈴鹿家は、今では重森三玲庭園美術館になっています。漬物屋「大安」は、社家の治郎さんが始められたとは知りませんでした。
 

吉田構跡の説明をする武富幸治会員(右端)

南口門跡の散髪屋は江戸時代にも髪結屋で、全国の神官任命権を持つ吉田家の神道講習を受ける人たちが頭を整えた、など話は尽きませんでした。

花折断層
皆さんの立っておられるところが、花折断層の真上です。ショッキングな切り口で、断層の動きと種類を説明しました。
縦ずれには正断層と逆断層があります。逆断層で盛り上がったのが如意ヶ岳。ホンマかいな!と狐につままれたような気分になります。もっと驚いたのが、横ずれの話でした。花折断層が右横ずれを起こし、行き場のなくなった地面が盛り上がり、この吉田山を作ったというのです。これを、末端膨隆丘と言います。この様子、模型を作り、動かして見ました。うまく吉田山ができました。
 

花折断層の説明をする田村光弘会員

新長谷寺跡
旧参道登り口で、藤原山陰(やまかげ)の話がありました。助けた亀に助けられる話が、浦島太郎そっくりに展開します。山陰は観音信仰により、ここに新長谷寺を創建します。江戸時代の花洛名勝図絵にこの新長谷寺が描かれています。明治維新後、新長谷寺は真如堂に移されますが、階段や石垣、灯籠なども江戸時代とそっくりです。タイムスリップしたような様子に驚きます。
 

新長谷寺跡の説明をする植山政雄理事

神海霊社
神海霊社は吉田兼見の孫の萩原兼従(かねより)を祀っています。兼従は秀吉を祀る豊国神社の初代神主となりましたが、豊国神社が廃社となったため、吉田家の後見役となりました。
 

神海霊社

山陰神社
参道を少し上ると、山陰神社があります。西山まで眺望が開け、素晴らしいところです。山蔭は料理の神様として昭和34年に祀られました。以前は、ここに西天王社(現須賀神社)がありましたが、大正13年に聖護院に移転しました。
 

山陰神社の説明をする相場まり子会員
山蔭神社

 

斎場所大元宮
吉田神社は平安時代、藤原山蔭が奈良の春日大社を勧請して創建しました。平城京の春日大社、長岡京の大原野神社とともに、藤原氏の氏神三社と呼ばれていました。
応仁文明の乱後、吉田兼倶は独自の唯一神道を唱え、具現する場所としてここに大元宮斎場所を建てました。陰陽五行・神仏習合など諸説を統合した原理に基づいています。
大元宮の建物についての詳しい説明がありました。屋根の千木は前は内削ぎ(陰)、後ろは外削ぎ(陽)になっています。鰹木は前は丸材が三本が三組、後ろは角材が二本が二組あります。角と偶数は陰、丸と奇数は陽を表します。
 

斎場所大元宮の前で説明する大谷芙美子会員
大元宮の千木と鰹木

大元宮の中には通常は入れませんが、今回は神官の案内を戴きました。
 

吉田神社権禰宜吹田武士様にお話を伺いました
斎場所大元宮

 

大元宮の中に移動してお話は続きます

創建時の大元宮は日野富子の援助によって建てられ、「内宮源」「外宮宗」の扁額は富子の筆であること、天皇の身内に不幸があった年は新嘗祭を大元宮で行ったことなど、興味深いお話を聞かせていただきました。
 

 

大元宮内の内宮(右)外宮の扁額

節分の日には、ここで疫神(えきじん)祭が行われます。神職が門の外に向かって「荒ぶることなく山川の清き地に鎮まります」ことを祈り、米とお神酒を撒きます。
明治天皇の胞衣(えな)塚が大元宮の北東にありますが、今回は足場も悪いことからお参りしません。歴代天皇の胞衣塚の写真を提示され、墓所と同様大切に祀られていることに感銘しました。
 

大元宮の前に戻り明治天皇の胞衣(えな)塚の説明

竹中稲荷神社
桜の時分この辺りの景観は見事です。平安初期、在原業平が竹中稲荷神社の近くに居を構えたという記述があり、吉田神社より古くからあった神社です。昔は多くの信者を集め、鳥居がびっしりと並び、雨が降っても濡れることがない、と言われるほどでした。
中京区間之町御池にも在原業平の屋敷跡が有り、そこに本社を構える吉忠株式会社が、この稲荷を信奉し、鳥居を奉納しています。
 

竹中稲荷神社鳥居で説明する田村光弘会員

業平塚
竹中稲荷の奥に、在原業平のお墓と伝えられている塚があります。業平は天皇の孫ですが、臣籍降下して在原姓になりました。プレイボーイで、35歳の時に18歳の藤原基経の妹・高子(たかいこ)と駆け落ち事件を起こしたエピソードなどが語られました。
 

業平塚

霊元法皇御幸址
第112代霊元天皇が最後の法皇になられます。東山天皇に譲位されてからも法皇として長く影響力を持たれました。幕府に対しても毅然とし、大嘗祭も復元させました。
この吉田山にも3回行幸され、崩御200年祭に碑が建立されました。
 

霊元法皇御幸跡の石碑

 

霊元法皇御幸址で説明を聞く参加者

紅もゆる歌碑
紅もゆる…♪ 第三高等学校(現、京都大学)逍遙歌。皆さんよくご存じだと思います。作詞者澤村胡夷、作曲者不明、時代により歌詞も変化しているようで、当初の歌詞で碑が作られました。
黒沢明監督の映画「我が青春に悔なし」の全編にこの曲が流れ、一躍有名になりました。スマホからこの曲が流れ、マイクを通し皆様の耳元まで届けられました。
 

紅燃ゆる歌碑

 

紅もゆる歌碑前で説明する植山政雄理事

茂庵
谷川茂次郎(茂庵)をご存じですか?歴史書には残らなくても、文化に貢献した人もいらっしゃいます。明治から大正にかけて新聞用紙の配送で財をなした、京都大原生まれの茶人です。
茂次郎は、今までの閉鎖的な空間ではなく、開放的空間での茶道を始めました。吉田山東側の斜面に懸造りの茶席や食事棟を設け、東山の景観(真正面に大文字)を望む茶会を楽しみました。
現在、食事棟は「茂庵」として喫茶、レストランとして使われています。
 

茂庵前で説明する丹羽氏昭会員、左側の入り口は閉まっていました

谷川住宅
茂庵の麓には眺望絶佳な和風住宅群を配し、町の喧噪から徐々に山遊びの気分を高める演出をしました。東面庭園の2階座敷からは大文字が一望できます。当初は銅板葺きの屋根が赤銅色に輝き、赤銅御殿(あかがねごてん)と呼ばれました。京大の先生方が借りたと伝えられています。
 

今回は見学できなかった谷川住宅

茂庵は臨時休業で、茂庵庭園から谷川住宅までの道は通ることができなかったので、写真での案内になりましたが、独特な建築を味わって頂けたかと思います。茂庵の前にての散会となりました。ご協力ありがとうございました。            (会員 丹羽氏昭)

(広報 須田信夫)

(写真 須田信夫)

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