第113回 歴史探訪会 東部部会「糺の森散策―緑陰・涼風・坂道なし―」
第113回 歴史探訪会 東部部会「糺の森散策―緑陰・涼風・坂道なし―」
日時:令和6年9月26日(木) 12時30分受付 13時出発~ 快晴
集合場所:葵公園 尾上松之助像前
参加人数:49名(スタッフ10名含む)
コース:葵公園→旧三井家下鴨別邸→河合神社→河崎社→雑太社→糺の森→旧奈良の小川周辺祭祀遺構→舩島→禮殿→御手洗池(解散)
今年は9月にもかかわらず猛暑が続き、会員の皆さんの身体に負担にならないよう標題のように納涼箇所を選んでみました。しかし、天候にも恵まれ予想以上の猛暑の中の歴史探訪となりました。
【下鴨の歴史】
太古の下鴨には広大な鬱蒼とした原生林が広がっていましたが、弥生時代に出雲氏が定住し米作を始めます。その後、上賀茂の賀茂氏が進出し、賀茂下神社を建立し下鴨神社(賀茂御祖神社)が始まります。
平安時代には王城鎮護の神社として朝廷から崇敬され、賀茂祭は勅祭となります。室町時代以降境内を取り囲む原生林は徐々に縮小し、現代には文化人の邸宅や時代劇の撮影所ができました。
「目玉の松ちゃん」業績も併せて解説をし、糺の森散策へ向かいました。
【顕名霊社(アキナレイシャ)と三井家下鴨別邸】
最初に三井家の概要を説明しました。
呉服商を営む三井家は信仰する養蚕の神・木嶋神社に顕名霊社という祖先を祀る神社を建立しましたが、明治の終わりに現在の家庭裁判所の地に遷座しました。参拝の休憩所として下鴨の地に別邸を移築します。戦後、顕名霊社は東京に遷され、現在は向島に祀られています。
【秀穂舎(シュウスイシャ)】
下鴨神社の社家や社家町について説明をしました。
江戸時代から糺の森西方に社家町が形成されましたが、大正時代に下鴨本通を通すため取り壊され現在は殆ど社家の面影を残す住宅は残っていません。その貴重な佇まいを残す住宅が、浅田家と鴨脚家です。旧浅田家の秀穂舎について、外部から華表門(鳥居の形)や歳木、御祓場(泉川でのみそぎ)等説明をしました。
また、鴨脚と書いて「いちょう」と読ませる難読名字の一つです。鴨の足がイチョウの葉に似てるからです。その鴨脚家でも庭に禊ぎ用の井戸があります。社家は明治の「神職世襲廃止令」などにより衰退しました。
【河合神社】
祭神は玉依姫(神武天皇の母、下鴨祭神の玉依媛とは別)。創建は不明で神武天皇の御世には存在していたという説もあり、かなり古い神社で女性の守護神とされ美麗の神とされています。鴨家が神職を勤めていました。
ここでトイレタイムを取りましたが、休憩中、付近の有名人(湯川秀樹、高坂正堯、高田浩吉、今西錦司、鹿子木孟郎 等々)についての説明がありました。こんな環境の良い所に住んでみたいものです。
【神宮寺跡】
このあたりは弘仁11年(820)から明治元年(1868)まで、神仏習合の思想により神社に付随する寺院が設置されていましたが、明治の神仏分離令により解体され荒廃していました。しかし、平成26年からの史跡整備事業により観音堂の礎石や竜ガ池の復元がされました。
なおその機会に、鴨長明の「方丈庵」を復元したものを、河合神社から移設しています。また、百万遍のあたりにあった鴨氏の祖先神の社(河崎社)は遷座を繰り返していましたが、式年遷宮事業の一環として再興されました。
【雑太社(サワタシャ)】
祭神は下鴨祭神(賀茂建角身命)とその父君神魂命(カンタマノミコト)ですが、サッカーやラグビーの神として信仰され、糺の森の馬場で三高と慶応が日本人同士の初めての試合を行った事から、その顕彰の碑が設けられました。
この社が有名になったのはラグビーワールドカップが日本で行われ、組み分け抽選会が平成29年(2017)に京都迎賓館で行われたことです。抽選会の後、世界各国の代表が第一蹴の地を視察しました。その後、ワールドカップトロフィーが届けられ、雑太社前でお祓いが行われました。
【賀茂斎院歴代斎王神霊社】
嵯峨天皇は有智子内親王を初代の斎王としました。以後斎王の制度は400年続き35代を数えました。斎王は賀茂祭の期間は賀茂斎院御所に滞在しました。初代から最後の35代斎王の御神霊を祀る社として平成30年現在地に再興されました。
本殿が板囲いされているのが気になります。式年遷宮の時にご開帳されるそうですが、神様の屋敷には誰も触ってはいけないと言う原則から、囲いをしたそうです。いたずらをした人がいたのでしょうね。
【糺の森】
少し立ち止まり木陰の中、糺の森についての説明をしました。
太古は150万坪であった原生林は明治4年の上知令により3万6千坪のみとなりました。その中には、泉川、奈良の小川、瀬見の小川と御手洗川が流れています。糺の語源や蚕の社との興味深い関係、式年遷宮のもろもろの話をしました。
【烏の縄手】
縄手とは、細く狭い長い道のこと。本殿にお参りする参道を祭神が八咫烏であることから烏の縄手と呼んでいました。しかし正参道は神様の御幸道として避けることが多く、普段通らない小道には縄文時代の遺構や遺物が発見されました。
復元された平安時代の奈良の小川と泉川の間には平安時代の祭祀跡(斎場)が確認されています。
また、御手洗川の湧水と泉川の合流地点には舩島が設けられ斎王の祭祀と雨乞いの面影を想像できます。夏秋はヤブ蚊が多いですが、少し違った道を散策するのもお勧めです。
【禮殿(ライデン)】
本来、本殿では葵祭などの祭祀、禮殿では祈祷を行っていましたが、明治以降、全て本殿で行われていました。
2024年7月1日に第34回式年遷宮事業として、伊勢神宮から譲り受けた社殿の古材を使用して本殿は葵祭などの祭祀のみを行う本来の姿に戻すべく、祈祷や祈願を行うための施設として禮殿が再興されました。
【御手洗(ミタラシ)池】
下鴨神社のみたらし祭が行われる御手洗池の前に参加者が集合、みたらし団子やうんちくのある川柳を聞き、みなさんで記念写真を撮り終了しました。
(会員 丹羽氏昭)
(写真 岡本正二、武富幸治)
(広報 須田信夫)