第123回研究発表会報告、吉岡 央 会員、京のこと語り隊 (22.11.28)
2022.12.02
第123回研究発表会報告、吉岡 央 会員、京のこと語り隊 (22.11.28)
YouTube 期間限定 12月4日(日)午前10時から12月10日(土)午後5時まで
会員のみ限定公開
◆日 時:令和4年11月28日 午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 2階
◆研究発表:1.「京へ物資を ~水運編~その1」 吉岡 央 会員
2.「京(みやこ)のこと語り隊」から2名
①琵琶湖疎水・松ヶ崎分線の謎 田村光弘 会員
②歳時記からみる京都(冬至の頃より) 松枝しげ美 副理事長
◆参加人数:ひとまち 27名
第1部は、 「京へ物資を ~水運編~その1」吉岡 央 会員です。
藤原京は壬申の乱で勝利した天武天皇が計画を固めつつあったが、途中で死去した為に皇后の持統天皇が後を引き継ぎ完成させた。ここは日本で初めて(694年)都市計画に基づき条坊制が整った唐風の大規模な都(人口は数万人)であった。
都を作るからには造営段階から土建材料の搬入がまず必要であり、砂利・土砂・巨大木材等の大量で重量物資ばかりである。物資の搬入には人・牛馬だけではとても追いつかず、海・湖・川を利用した水運に頼らざるを得ない。藤原京周辺には特に大河川は見当たらないが、現在の飛鳥川を何らかの方法で舟運に利用したと思われる。又内裏跡からは運河も発見されているので、水運は重要な輸送手段であった。しかし藤原京は飛鳥豪族の政治干渉や都市排水の不良、また公設市場の未設置等が重なり僅か16年の短命であった。これらの問題を解決すべく元明天皇が(710年)に平城京を開いた。
平城京造営に必要な木材は地元調達も当然であったが、西日本各地からも集められた。特に丹波・近江からも大量に集められ、大津の田上山は度重なる伐採の為に禿山になったことは有名である。平城京では想定人口は十数万人として、藤原京では未設置であった公設市場が東市・西市として初めて設置され、それぞれに舟運用の運河として東西堀川が掘削された。東堀川は余り長く使用されなかったが、西堀川は長く使用されたようで土建材料・食料・燃料・等が運ばれ市民生活に役立った。
丹波・近江からの木材搬入ルートは、桂川・宇治川を通り一旦巨椋池(埋立で消滅)を経由して木津川を遡り、木津川市の木津で陸揚げされ平城山(通称)を超えて平城京に到着した。しかし平城京の水事情は大和川水系の1本のみで、しかも水源地は低山地であり保有水量が豊富とは言いにくく、溜池を多数設けて貴重な水と生活を共にした。以上から都はなるべく大河に面するか又はそれに近い所に、又生活用水もある程度豊富にある所に遷都する方が良いのではないかと云う議論も出てきた。そしてこれが長岡京・平安京へと続くのである。(会員 吉岡 央)
第2部前半は琵「琶湖疏水・松ヶ崎分線の謎」田村光弘会員 です。
京都の地形、北高南低に対し、いかにして昔の人は水を北に導いたか?京都の人たちにとっては謎そのものでした。コロンブスの卵ではないですが、結果が分かれば何でもない工夫でした。
その工夫の跡を追ってみたいと思います。解決するか更に謎が深まるか?
水を流すための方法は一つ、高低差を作ることです。高いところから低いところに流す。高所にある松ヶ崎に水を向わすためには、更に高いところから流さなければなりません。この高さを確保するために水路閣が考えられました。これで目的地に向かう、これが答えでした。松ヶ崎は取水口から北西にあります。本来西に向かい鴨川を北に向かうのがわかりやすいです。しかし、大変な工事になります。この高さの確保を東山に託します。水路閣は西に向かわずに、東の山麓に向かいます。これが水路閣の水が東に向かう原因です。
このように文字で示すと大層ですが、絵で示せれば一発です。これが今回お話ししたかったことのすべてです。
田辺朔郞はこの水路閣のことを設計図で「桟橋」と記載しています。水路閣の名をつけたのは日の出新聞の見出しでした。
さて、東山水泳部のエピソードを挟みながら、水は北へ北へと導かれます。
「扇ダム」の存在はほとんど知られていません。水量調整用の貯水池かと思われますが、現在では野村美術館への放水路しか痕跡は残っていません。
安楽寺さんの前の階段で、導水の実験動画を入れました。同じ段(標高)では背の高い北さんへ水は流れません。西へ一段降りてもらうと高低差ができ北へ水が流れます。動画ではうまく動かないので北の人に水を引っ張ってもらいました。愛敬です。
この分線の水路の道は「哲学の道」と呼ばれる有名な散策路です。本来分線の点検管理の道でした。橋本関雪が桜を寄付したことで、更に名所になりました。
山麓の水路は西側と高低差があります。この高低差を利用して水車小屋を並べる予定でした。しかし、電気動力が導入され、作られることはありませんでした。
銀閣寺道のところで疏水は大きく西に向かいます。なぜ北に向かわなかったかと謎は深まります。地図で北を確認すると、滋賀越えの谷と白川があります。この二つを越えるには更に水路閣が必要でした。西に向かうと「白川」と交差します。昔の人には川の立体交差は理解できませんでした。サイフォンの逆ですが、ここでも動画により理解を求めます。川の立体交差は高野川でも賀茂川でも行われます。卵がもう一個割れます。春、ここで長大な花筏が現れます。桜の花びらが軽いため白川の下を潜れないのです。
無隣庵での水の取り入れ口を写真で示します。配水所(船だまりあたり)からここまでの高低差を利用して、道路の下を潜り、庭の取り入れ口から吹き出します。同じ原理を使います。動物園の隣には大きな噴水があります。これも同様に配水所からの水を噴き上げます。無動力です。
琵琶湖からの水を流しているので、藻の発生は避けられません。また白川からの砂も多量に流れてきます。昔は月に2回藻刈りと砂さらいのために発電を休止しました。藻刈りのためモーカリマヘンと誰かがいってました。
西に流れた分線は京都大学の東で北へ方向を変えます。平地に降りたために低い場所を求めます。現在では高級住宅街が並びます。(駒井家住宅もこの辺りにあります)北大路を越えたあたりから西に向かい高野川に至ります。土管により潜るのは白川と同じです。現在では水を必要とされないため高野川に放出して分線は終了です。
もう少し旧路をたどってみましょう。明治期賀茂川も同様に潜り、紫明通りを流れ、小川から堀川に入ります。紫明通りの水は戦後には暗渠になります。現在再び賀茂川からポンプアップにより地表を流れ、堀川に注いでいます。
余談ではありますが、災害に強い街作りとして琵琶湖疏水松ヶ崎分線の復活により豊かな水を確保しようとするプロジェクトがあります。注目したいものです。(会員 田村 光弘)
第2部後半は「暦からからみる京都の歴史と文化(冬至の頃)」松枝 しげ美副理事長です。
12月半ばに行われる身体障害者団体協議会の「福祉のつどい」、そこで簡単な京都のお話を・・・というご依頼をいただきました。
わたくしの母親が生まれつきの身体障害者でありますが、足が不自由なことを全然感じさせず、いつも笑顔でわたしたち兄弟三人を育ててくれた、少しその恩返しの意味もあり担当させていただくことになりました。
本日は、本番の練習として都草会員の皆さまに聞いていただき、改善すべき点をご指摘いただきました。本番当日は「暦から知る京都の歴史と文化」(冬至の頃)と題してお話させていただく予定です。本日の練習でも、東寺を例にとって、東寺の創建と12月21日の終い弘法について、さらに翌日22日頃に迎える「冬至」について、思うところをお話させていただきました。日本では冬至には「融通が効くように」とゆず湯に入り、「運がつくように」とカボチャ(なんきん)など「ん」がつく食べ物を食します。
冬至は二十四節季の一つであることから、海外においても古代からいくつもの冬至信仰が伝わっているようです。アイルランドのニューグレンジ古墳や、北欧ゲルマン人のユール祭など冬至は日が長くなり始める時、「再び生まれる」という信仰をもち、冬至を祝うという習慣があったようです。
さらに、「クリスマス」という言葉からも興味深いことが見て取れます。
英語のChristmasは、Christクライスト(キリスト)+ mas:マス(ミサ)の2つの音節から出来ており、「メリークリスマス!」はミサを祝福している意味合いが強いようです。
他に、 フランス語のクリスマスにあたる言葉は「Noël(ノエル)」。こちらには「降誕」という意味、ドイツ語では「Weihnachten」、こちらは聖夜、デンマーク・ノルウェー・スエーデンなど北欧の地域のクリスマスにあたる言語「Jul(ユール)」にはは冬至祭、言葉そのものに「冬至祭」という意味があるようです。世界共通の暦であるといってもよい冬至。日本ではゆず湯と食で、健康と運気上昇を祈る日ですが、世界では冬至・復活・再生キリスト降誕、クリスマスまで、多くの意味を含んだ日となりそうです。
皆さまも、まもなくやってくる冬至とクリスマス、素敵な一日をお過ごし下さい。(副理事長 松枝 しげ美)
(広報部 岸本 幸子)