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第122回研究発表会報告、菊井 俊彦 会員、堂園 光子 会員(22.9.15)

2022.09.21

第122回研究発表会報告、菊井 俊彦 会員、堂園 光子 会員(22.9.15)

 YouTube 期間限定 9月23日(金)午前10時から9月29日(木)午後5時まで
    会員のみ限定公開

◆日 時:令和4年9月15日 午後1時10分~午後4時00分

◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表:1.『大宮大路末路と若狭街道(その1)』 菊井 俊彦 会員

      2.日本書紀その5 天武天皇  堂園 光子 会員
◆参加人数:ひとまち 36名

第1部は、 『大宮大路末路と若狭街道(その1)』 菊井 俊彦 会員です。
 平安京の北郊を南北に上賀茂に通る道は大宮大路末路しかなかったものと考えています。そして、この末路を扇の要として丹波高原を越えて若狭国に向かって扇状に多くの若狭街道が続いていたのだと思います。若狭街道とは若狭国に通じる道の総称ですが、表題の若狭街道では大原街道・鞍馬街道・雲ヶ畑街道・長坂街道の四つにまとめました。本日は(その1)として大原街道・鞍馬街道を、次回1月では(その2)として雲ヶ畑街道・長坂街道について勉強を進めたいと思います。

 若狭国は御食国と呼ばれて天皇の食料や神への供物を供給する国と位置付けられていて、京都にとってはそれほど身近な地域なのです。若狭国は奈良・京都の政権の安定するなかで琵琶湖水運を背景として日本海側の外港として発展していきます。足利義満に象や孔雀が届けられたのも小浜津であったそうです。
しかし、若狭街道はすべて丹波高原の山々を越えていかなければなりませんが、その山々には多くの散在村落が点在しています。そのため、古来からの若狭街道で現在も国道として利用されている道は「花折断層」上を通る大原街道しかありません。この大原街道に並行するかのように通る鞍馬街道は若狭街道のなかで一番交通量の多い道であったようです。「京は遠ても十八里」といわれた道も鞍馬街道のようです。

 鞍馬には後背地の散在村落から炭・薪をはじめとする生産物が運び込まれ、運んできた人は鞍馬で日用品を購入して持ち帰ります。そして、鞍馬の人はそれらの生産物を京都に運んで販売して、帰りに日用品を購入して持ち帰るという物流の流れが構築されています。このようなことから鞍馬は中継貿易地として「船のない港」と呼ばれていました。
大原街道・鞍馬街道には京都―市原の間に二つの道がそれぞれに存在しています。大原街道については、『平家物語』のなかの「後白河院の大原御幸」に描かれた「鞍馬どほり」を市原から江文峠・江文神社脇を通り大原に入る道が大原街道の古道だとされています。

 そして、大原から比叡山西麓を通る道が新しい道として記載されています。鞍馬街道については、鞍馬西街道とされている「旧大宮通を北上―御薗橋―上賀茂神社―原峠―二軒茶屋―市原」のルートは大原街道の古道とされるルートと同一の道を示しています。そして、葵橋口、鞍馬口からの道が新たに通された道とされています。
 以上のように、大原街道・鞍馬街道の古道は大宮大路末路に続いていると考えられます。次回では雲ヶ畑街道・長坂街道がどのように大宮大路末路に続いていたかを勉強したいと思います。(会員 菊井 俊彦 )


第2部は、日本書紀その5 天武天皇です。
「日本書紀」は30巻と系図1巻とでなっています。系図の1巻は失われて今はありません。
30巻の内容は、神話の時代から第41代持統天皇までです。

第1巻~2巻は、神話の時代です。第3巻は2代綏靖天皇から9代開化天皇までが書かれています。欠史8代と云われている天皇で業績が少ないので8人の天皇が一巻にまとめられています。その後はだいたい天皇一代ごとに一巻が使われています。

けれども天武天皇に限っては28巻・29巻と2巻使われています。これは特別なことですが、「日本書紀」は天武天皇が自分のための「日本史」を作るためのものであったということです。

「壬申の乱」(28巻)については大津京の大友皇子が悪く、天武天皇は已むに已まれず決起したという内容になっていますが上のことを踏まえたうえで「日本書紀」を読んでいくことが大切だと思います。
今回は天武天皇と、その死後、大津皇子の悲劇までをお話いたしました。(会員 堂園 光子)

                                  (広報部 岸本 幸子)