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活動内容

第120回研究発表会報告、久米川武士 会員、岡田 英三郎 会員(22.4.22)

2022.04.28
第120回研究発表会報告、久米川武士 会員、岡田 英三郎 会員(22.4.22)
 YouTube 期間限定 4月29日(金)午前10時から5月5日(木)午後5時まで
    会員のみ限定公開 
 
◆日 時:令和4年4月22日 午後1時10分~午後4時00分
 
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
 
◆研究発表:1.第1部 鎌倉殿と北条氏 頼朝、義時vs後白河、後鳥羽
           第1回 源頼朝の一生 京都?伊豆?鎌倉 久米川 武士 会員
 
      2.『源氏物語』における反モデル論  岡田 英三郎 会員
◆参加人数: 28名
 
 
 
第1部は、 鎌倉殿と北条氏 頼朝、義時vs後白河、後鳥羽、 第1回 源頼朝の一生 京都?伊豆?鎌倉 久米川 武士 会員です。
 
 日本中世史を会員の皆様と共に学ぶ事にお誘いする事を目的にこの場を頂いた。
平安後期から室町幕府成立期までにフォーカスして、その時代に躍動し、歴史に変化をもたらした人物が、どの様に、その時、その場で置かれた選択を決断して行ったのか、を追求したい。

一人では出来ないが、人脈/血脈で得た仲間がいれば出来る。その仲間作りの所以も知りたい。

 
 今回の第一回は 「源頼朝」。
残忍、冷酷なイメージ強いこの人物は歴史上人気はないが残した業績は日本歴史を転換させた。本人の意図とは無縁に国の仕組みを根本的に変えた。
清和源氏の一流である河内源氏の血族に嫡男として生まれ、両親共に貴族だった。この血は人を集め、彼らは頼朝の進む道で時に先導役となり、時に後援した。
「公家化した平家の追討」「武士による独立軍事専制政権造り」を目指したと言うが頼朝は「河内源氏の”嫡流化”」「源氏の棟梁」が目指す全てだった。そして、その上で朝廷を守護する事だった。
 
御恩/奉公と言う制度も朝廷への唯一の軍団形成への必要性からの必然だった。 だが、それは日本での明治までの仕組みとなった。
私はこの朝廷を頂点とする頼朝型政権を「ハイブリッド軍事政権」と呼んだ。それは本格的武家政権への端緒となった。

 頼朝は目指す目標の為に一族含めた多くの犠牲者を生んだ。北条政子が息子, 孫を蔑ろにした、親を追い出したのも北条義時が愛する正妻の一族を絶滅させたのも、目指す処の為、家の為だった。それはこの時代のなせる已むない選択だった。
そう思うと残忍、残酷行為を繰り返したこの男も信念持って、戦のない安定した社会を作ると言う自分に置かれたその使命を全うした好ましい男に見えてくる。
最後に、八重姫、亀の前も言いたい事も言わず、心優しい、控えめな女性だった、と書に残っている事を付け加えておきたい。

<お詫び>
 今回の発表では不慣れが故とは言えパワーポイントの文字が余りに小さく、読めない、時間に追われたのか、説明すると言うより、早口で一方的に捲し立て喋ったので良く聞き取れなかった、と言うご指摘を頂きました。誠にその通りで、申し訳なく心よりお詫び申し上げます。
ご指摘頂いた事で、要領をかなり掴めましたので次回はきちっとできる様に精進し、また出来る事をお約束したいと思います。今後とも宜しくお願い致します。(会員 久米川 武士 )
 
 


 
第2部は、『源氏物語』における反モデル論 岡田 英三郎 会員です。
 いささか奇妙な講演題目で、マニアックな話をさせていただきました。

 ご参加の皆さんはいかがお聞きになりましたでしょうか。

 
 平安時代中期に紫式部が書いたとされる『源氏物語』では、そこに描かれた内容は、当時の事件・風俗・習慣が反映されたとされている。これを読んだ人は、そのモデルがどのようなことが反映しているかが分かったであろう。

私はかかるモデルを丁寧に拾い上げていたが、ここで奇妙なことに気が付いた。それは当時の風俗・習慣にない著述がいくつかもあるということである。ここではそれらを「反モデル」と名付けた。そのような「反モデル」が描かれたのかは、著者紫式部の意図的なものであるようだ。

 

 今回発表させていただきました『源氏物語』の内容に、当時の社会状況に対するアンチテーゼが書かれているのではないかという視点は、従来の膨大な『源氏物語』研究ではあまりみられません。

 発表のまとめとして、紫式部はすごい人だったという結論にしてしまったのは、言葉足らずでした。
 今回の私の発表で『源氏物語』を再読したいと思われる方は、瀬戸内寂聴さんの現代語訳をお薦めします。(会員 岡田 英三郎)
 
                                       (広報部 岸本幸子)