第119回研究発表会報告、豊田博一理事、新出高久会員(22.3.25)
2022.04.01
第119回研究発表会報告、豊田博一理事、新出高久会員(22.3.25)
YouTube 期間限定 4月2日(土)午前10時から4月8日(金)午後5時まで
会員のみ特別公開
◆日 時:令和4年3月25日 午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1.「淀の歴史と地形の変化を語る」豊田 博一 理事
2.伏見「寺田屋」再考 ―殉難士記念館としての寺田屋― 新出 高久 会員
◆参加人数:ひとまち 28名
第1部は、 「淀の歴史と地形の変化を語る」豊田 博一 理事です。
淀地域の歴史を顧みるとき、巨椋池と淀川水系の物流の変遷と人為による地形の改造が重要です。
巨椋池と淀川水系の物流の変遷
藤原京に初めて本格的な都(固定的な都であることを目指し、人と機能を集中)が建設されて以降、都への物流を確保することが重要になる。
特に都を維持するための木材や米を中心とする重量のある物資を運送するために水運の利便性が求められた。このことから、水運に適した淀川水系に都は移っていく。
淀は巨椋池を経由して宇治川、木津川、桂川の合流地点であり大阪へは淀川となって繋がっている土地であった。このことから、平安京に遷都されて以降、平安京の南の外港として、都を支える物流の最重要地として栄える。
豊臣秀吉の巨椋池改造と伏見城下町と港の建設により、物流の最重要地の座は伏見に移行するが、幕末までは淀川水運の一翼を担う存在であった。
明治以降の川の付け替えや水運から陸運(鉄道、トラック運送)への変化により物流の要所としての淀の歴史は幕を閉じる。
人為による淀の地形改造
淀の地形は①1594年からの豊臣秀吉の巨椋池改造と堤の造営②淀藩による淀中州の整備と淀城下町の建設③木津川の付け替え(1868年12月~1890年1月)④宇治川の付け替え(1896年~1910年)⑤巨椋池干拓(1933年~1941年)により大きく変貌した。
現代の淀から過っての水に囲まれた町を想像することは難しいが、江戸時代以前の復元図等を片手に、土地の高低差を確認しながら淀を散策し、淀という土地の歴史を感じられことをお勧めします。
(理事 豊田 博一 )
第2部は、伏見「寺田屋」再考 ―殉難士記念館としての寺田屋― 新出 高久 会員です。
伏見「寺田屋」は幕末2つの事件で有名で、「昔のまま」と謳われて。ところが、2008年に週刊誌で現在の建物は慶応4年1月の戊辰戦役で焼失し、現在の建物は再建であると報道し、「昔のまま」は“観光偽装”だとする記事を掲載しました。その結果、京都市もそれを追認し、誤解を与えない説明への改善を求めました。
しかし、これだけ騒ぎになったにも関わらず、現建物についてはいつ再建されたものであるのかという指摘はどこにもありません。筆者はそこに疑問を抱き、少し資料にあたった結果を報告いたしました。
その結果、戦役後数ヶ月以内に再建営業再開していた傍証がいくつも見つかるのに、寺田屋本体が焼失してしまった傍証はみつかりません。当時のかわら版に伏見の焼失範囲が示されていますが、そこに含まれていても焼失していない建物はいくつも存在します。結論をいえば、現寺田屋建物は一部被災したものの戊辰戦役後、すぐに元の建物西側におとせ自身が再建されたものでした。その後、おとせは明治10年に病没し、息子の伊助一家は伏見を離れました。
明治26年、伏見町長もつとめた江崎権兵衛が現在の寺田屋東敷地をその址として薩藩九烈士の顕彰銅碑を建てました。同時にその周辺の寺田屋所有地も買い集めて建物を保全したようです。
明治37年、日露戦争開戦前夜に皇后が海軍守護神として龍馬が現れた夢(皇后の瑞夢)をみたことが、4月になって新聞報道されます。それを見た寺田伊助の義弟、大物大阪財界人だった荒木英一が寺田家に残されていた龍馬書翰をもって上京し、それを海軍好きだった皇后が喜び、それをみた寺田屋に思い入れをもつ藩閥上級官僚や伏見の有力者たちが歴史ある「寺田屋」屋号の復活を意図したことを確かめました。
再興された寺田屋には龍馬のみならず、殉難九烈士の遺品なども展観され、「殉難士」記念館的な側面をもっていました。しかし、一方で近代戦戦没者慰霊が国家の手で行われ殉難士慰霊もそこに統合されていくと寺田屋の存在意義も失われた結果、経営が傾いたと思われます。あとは「史跡」として生き延びるだけでした。
戦後、龍馬ブームがおこり「史跡」としての価値は上がり、戦後の経営をになった14代目伊助氏は訪れる司馬遼太郎もふくむ龍馬ファンから「教えられ」様々な「伝説」ができあがっていったようです。
ウソの「伝説」を否定するのはいいのですが、それをもって現在の寺田屋建物を幕末の雰囲気を楽しむ観光施設というような捉え方は誤りであり、京都の観光文化を考える上でガイド内容の見直しなども図っていかなければならないと思います。(会員 新出 高久)
(広報部 岸本 幸子)