第118回研究発表会報告、野津 隆会員、新井 滋子会員(22.2.3)
2022.02.08
第118回研究発表会報告、野津 隆会員、新井 滋子会員(22.2.3)
YouTube 期間限定 2月11日(金)午前10時から2月17日(木)午後5時まで
会員のみ特別公開
◆日 時:令和4年2月3日 午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 2階
◆研究発表:1. 承久の乱と六波羅探題~京のまちの様子はどう変化したの考察~ 野津 隆 会員
2.「昭和 ― 京都の料理屋」新井 滋子 会員
◆参加人数:ひとまち 26名
第1部は、 承久の乱と六波羅探題~京のまちの様子はどう変化したの考察~ 野津 隆 会員です。
2022年は大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で源頼朝が樹立した武家政権が注目されています。
この鎌倉武家政権に対する後鳥羽上皇による権門体制の戦いが承久の乱(1221年)であり、北条氏率いる鎌倉御家人の勝利で時代は鎌倉幕府優位のもと公家と武家が併存する時代となりました。
昨年は承久の乱から800年。貴重な史料である「承久記絵巻」の再発見も話題を呼びました。
承久の乱当時の京のまちは乱後、どのよな様子であったかを視覚的に時代は半世紀ほど後に描かれた「一遍上人絵伝」第七巻、京の四条釈迦堂での一遍布教の場面に見ることが出来ます。
時宗の念仏踊りの興行に群がる貴賤の人々の様子。さらには見世棚に商品を並べ商う店舗の様子。「店」の語源は商品を見世ることからと言われています。
そして武家政権の京の本拠地が鴨東六波羅政庁であり、ここに「六波羅探題」が設けられます。かつての平家一族の居住地が頼朝により引き継がれ、鎌倉方が乱後に機能させた「探題」。後に御醍醐天皇方に寝返った有力武士足利高氏らの攻撃で焼失。上皇・天皇を奉じて鎌倉へ逃亡を図った最後の探題北条仲時らは、近江東山道番場にて残り全員約430名が自害して果てました。 この南北探題全員の過去帳と供養塔が米原市番場の「蓮華寺」に残ります。
今回は触れませんでしたが「寅年」にちなんで、4代将軍として幼名「三寅」こと九条頼経は血筋では源頼朝の妹のひ孫にあたる方であったこと。
失意のうちに流された隠岐、そして広島県三次に残る「後鳥羽伝説」。順徳天皇とともに親子して京都大原に大原陵として祀られるまでのいきさつなど、怨霊としての「後鳥羽帝」は今も京のどこかに・・・などを機会があれば紹介いたします。
とにかく、鎌倉時代も「京」は日本の都であり、首都であったことを改めて思う次第です。(会員 野津 隆)
第2部は、「昭和 ― 京都の料理屋」新井 滋子 会員です。
思い出話、昔話などは発表にふさわしくないしと、色々構成考えました
この発表は都草の松枝さん、切島さん、イラストレータ永田さん 松井今朝子さんの助言、や資料提供などの援助なくして なりたたないものでした。
また、場を与えていただいた都草、準備していただいた岸本さん、須田さん、
あちこちに話がいって、思っていた以上に時間があり、とりとめなく焦点が不明確だったのが反省点です。
結果的に 昔ながらの料理屋の実態が、少しでも伝えられたなら 幸いです。
内容 ・京料理のルーツ 宮廷、武家、仏教 神前 茶道 など微妙にあわさっている。
京都の歴史文化と表裏一体
京都の風土にあったもの利用(これはどこの土地でも同じ)
例 川魚 乾物 野菜 地下水利用など
・料理屋のルーツ おおむね 江戸時代から
・昭和の料理屋 Mを通しての料理屋の実態 実際
① 江戸時代資料から 幕末動乱期に京の料理屋が多いに利用されたことがわかる。
歴史に出てくる以外にも沢山の料理屋があったと思われる
② 復元図
③ 料理材料の仕入れ先。 電気冷蔵庫や冷凍のない時代は逆に考えれば新鮮な
ものを食べていたといえる。
④ 働く人について
⑤ 従業員、家人の日常生活について
⑥ 閉業
・資料解説。
昔の料理屋一覧。当時の写真で部屋内部やイラストで配膳さん板前さん 等紹介
訂正! 鯛の焼物の写真見て ここから食用の中骨をとるような言い方しましたが
中骨照り焼きは、刺身の上下のみを使います。
最後に皆さんに聞く
最後の晩餐は和食 中華 洋食?ほぼ全員が 和食!
しかし、年齢層を十代や二十代にすると 別の結果がでるのでは、と思ったりします。(会員 新井 滋子)
(広報部 岸本 幸子)