第110回研究発表会報告、菊井 俊彦 会員、吉岡 央 会員(20.11.10)
2.「京都の鉄道遺産」 吉岡 央 会員
今回の主題は、白河院の“六条都市開発”なのですが、最初に左京六条四坊の「河原院」から始めたいと思います。私には『源氏物語』の光源氏の邸宅のモデルとなった四季の「河原院」〈四町、十一町・十二町・十三町・十四町〉のイメージしかありませんでしたので、「河原院」の規模が八町であるという記述には驚きました。
そうしますと、左大臣源融(822-95)の時代の鴨川の堤は六条大路付近でも、東京極大路より二町以上東にあったことになります。ひょっとすると九条大路付近までそうだったかもしれません。その後、摂関政治期には鴨川の堤は六条大路辺りまでとなり、院政期頃には鴨川の河原も今のような景観に近い状態だったのでしょう。
それでは主題に入りますが、堀川通から狭い六条通を入っていきますと(現在では民泊が軒を並べています)、道は新町通で突きあたっています。そして、少し下がったところから東に烏丸通まで狭いまま続いています(この部分は商店街のあった名残が見受けられます。私が自転車で走っていたころは魚屋さんが二、三軒残っていたのですが)。六条通は堀川通から新町通までの道が〈六条大路(8丈、約24m)〉の北端側であり、新町通から烏丸通までの道が〈六条大路〉の南端側に該当しているそうです。このことに白河院の “六条都市開発”地域の西限が町小路(新町通)であったことが影響しているのかもしれませんね。
『寝殿造の研究』 (太田静六著)には白河院の“六条都市開発”にからむ六条大路周辺の七つの邸宅があげられていますが、その中心的な邸宅が六条北・東洞院東にある白河院の「六条内裏」です。この六条四坊四町の地は光孝天皇の御所・釣殿院の所在地ですし、西隣の「中六条院」は宇多院の御所でした。さきほどの「河原院」も含めて、この付近は≪光孝・宇多朝≫にかかわりの深い地域でした。このように白河院による“六条都市開発”は、≪光孝・宇多朝≫とのかかわりの深いこの地を本拠とすることによって、宇多の死後に開始された摂関政治を否定し、≪光孝・宇多朝≫から白河につながる皇統を意識していると考えられています。
1876(M9)年9月に向日町から東海道線が京都に開通してから140年以上が経ったが、この間に鉄道は社会情勢に翻弄され目まぐるしく変わった。我国の明治期の工業を調べると、明治前半には欧米に遅れること約50年、産業革命が始まった。日清戦争までは繊維工業が中心の軽工業であったが、1901(M34)年官営八幡製鉄場完成と共に我国は軽工業から重工業へと大きく舵を切った。
一方自動車の歴史を調べると1880年代にガソリン自動車の基礎が築かれ、1886(M19)年ドイツのカール・ベンツによって3輪車ながら実用ガソリン車第1号が誕生し、1908(M41)年には有名なT型フォードが発売された。又国内に目を向けると1907(M41)年に国産第1号のガソリン車が誕生したが、欧米製に比べると性能が劣り自動車産業は育たなかった。
世界の経済政策を見ると18世紀頃から植民地主義・帝国主義に則り資本主義経済が強力に発達して(最少投資・最大利益)の原則が重要課題となった。
京都においても明治以降鉄道各社・各路線は順調に発達したが、技術革新や政治・経済政策の為に鉄道は目まぐるしく変わり、時には路線廃止もあった。その結果京都市内には鉄道遺産が各所に残る。21世紀は環境の時代とよく言われるが環境面から考えると、鉄道は自動車よりはるかに優れしかもロマンスが沢山あって、人々を引付ける。「鉄道よまだまだ、これからも」。是非頑張ってもらいたい。(会員 吉岡 央[ヒロム])
(広報部 岸本 幸子)