第103回研究発表会報告、岡 勉 会員、岡田 英三郎 会員(19.9.26)
第103回研究発表会報告、岡 勉 会員、岡田 英三郎 会員(19.9.26)
◆日 時:令和元年9月26日 午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 「明智光秀と本能寺の変(謀反の真相を探る)」 岡 勉会員
2.「歴史大賞受賞記念 深泥池風土記」 岡田 英三郎会員
◆参加人数:46名
第1部は、「明智光秀と本能寺の変(謀反の真相を探る)」 岡 勉会員です。
私は明智軍の襲撃路と襲撃戦術を中心に研究を進めてきましたが、まだまだ謎は残っています。もっとも有力とされる山陰道説にも未だ解明されていない区間があり、桂川のどの辺りをどのようにして渡ったのかも不明です。
本能寺襲撃の状況も明らかではありません。私は明智軍の戦術を、先頭部隊が突入➡後続の部隊が包囲➡信長殺害と推定しています。
本能寺と妙覚寺を同時襲撃しなかった理由もはっきりしません。唐櫃越説に代表されるように、「別の部隊が別の道を使った」と考える方もいますが、梅雨の真っただ中、険しい尾根道を大軍が夜間行軍することは非現実的。有能で実戦経験豊富な光秀は、政治・軍事の観点から、同時襲撃よりも連続襲撃(時間差襲撃)を有利と判断し決行したものと考えています。また、明智軍の兵力を一万三千人とする川角太閤記よりも、「七、八千の兵を率いて」と記すフロイス日本史の方がより現実的です。
信長の首と遺体も謎の一つです。誰が本能寺と二条御所に火を付けたのかという問題とも関係しますが、本能寺は織田方の可能性が高く、二条御所も織田方の可能性を捨てきれません。光秀が信長の首を晒したという記録が無く、秀吉も大徳寺で葬儀を強行した際、信長の遺体など無いとしています。フロイス日本史や甫庵信長記もこれを補強する史料になりますから、信長の首や遺体が行方不明という政治的フィクションが成立する余地はあります。
光秀の出身地も年齢も未だ藪の中です。光秀が幕府奉公衆であったとする「針薬方」という史料が近年話題になりました。美濃に関係する人物が、何故信長上洛以降活躍できたのかという研究の前進につながる可能性があります。
「四国問題」や「斎藤利三の帰属問題」など光秀にも不満はあったかもしれませんが武将達の基本は「家の存続」です。「情に流されない」人物が朝廷や将軍や他家の為、あるいは怨恨を理由にクーデターを起こすとは考えにくいのです。
光秀は「独裁的な信長の強さの裏に隠れていた、(幕府でもない)未完成組織としての織田家の弱点」を的確に認識していたからこそ、驚天動地の謀反を起こしたのだと私は考えています。光秀は信長・信忠を殺害する為の戦術で勝利し、天下人になる為の戦略で敗北したのです。(会員 岡 勉)
第2部は、「歴史大賞受賞記念 深泥池風土記」 岡田 英三郎会員です。
2018年10月に受賞した「歴史大賞」は私にとって望外の幸せでした。これを機に、受賞対称としていただいた深泥池地区の歴史・民俗調査について纏めさせていただきました。
今回の発表のベースとなったのは、2007年2月から2017年6月まで約10年間毎月・108回にわたってみぞろ池自然観察会刊行の『うきしま通信』に掲載させていただいた『深泥池風土記』です(現在も時々投稿しています)。
私は都草研究発表会で過去13回発表の機会を得ていますが、「やすらい花(やすらい祭)と風流」「六地蔵廻りの起源と歴史」「節分の豆撒きと追儺―深泥池始原伝承を追ってー」「京都琴平神社への道」「すぐき漬け」の5回分は、深泥池地区の歴史・民俗調査から派生したものです。
さらに、「深泥池の読みと漢字表記」「鞍馬街道の復元」「愛宕を“おたぎ”とよむことの論争」「絵図・地図の紹介」「深泥池村の成立と深泥池貴舩神社の勧請」について、未だ検討は不十分ですが、一定の纏まりを成稿しているので発表させていただきました。
また、将来に残した研究の一部として「絵図・地図類の整理」「御菩薩焼」「失われた六体の石仏の探索」「行基の山城での活動」「『上賀茂神社社家日並記』から深泥池を読み解く」などがあります。
これから頑張りたいのは『京都北山 深泥池風土記』という本の出版です。
深泥池地区の歴史・民俗調査研究はまだまだ続きます。上のようなテーマについて何らかの情報を得られましたら、ぜひお声かけください。(会員 岡田 英三郎)
(広報部 岸本 幸子)