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活動内容

第98回研究発表会報告、住 邦夫 会員、林 寛治 監事(18.12. 6)

2018.12.27

第98回研究発表会報告、住 邦夫 会員、林 寛治 監事(18.12. 6)

◆日 時:平成30年12月6日午後1時10分~午後4時00分

◆場 所:ひとまち交流館 京都 2階

◆研究発表:1. 失われてゆく記憶「神仏習合」 住 邦夫 会員

      2.「城下町 伏見を語る」 林 寛治 監事

◆参加人数:33名

 

第1部は、失われてゆく記憶「神仏習合」ダイジェスト 住 邦夫 会員です。
 かっての日本においては、お寺の境内の中に神社があるばかりでなく、神社の境内の中にもお寺があった。そればかりではなく、神社の本殿の前でお経(多くは般若心経)を読み上げる人が見かけられた。
また、神が仏に帰依して、仏に成るために修行するというような事まで起こった。
これらは、皆、「神仏習合」の様々な形態の一つである。

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 かいつまんで言えば「神仏習合」というものは、日本の神道と仏教がお互いに相手を全面否定せずに、ゆるく結合して一体化しようとしたものである。
この問題がなぜ重要かというと、神仏習合時代はなんと1200年も続いたからである。
 神仏分離後の今日の社会は、明治維新以来のたった150年に過ぎない。日本史の大半の時代において、日本人は現代とはかなり異なった宗教的風景をみてきたことになる。

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 現代人である我々は、どうしても現代の視点から過去の歴史を見る傾向があるが、忘れられつつある「神仏習合」の記憶を再現できなければ、正しい歴史の把握はできない筈である。
 そこでこの発表においては、護法善神、神宮寺、八幡信仰、御霊信仰、密教、本地垂迹説、熊野詣などのキーワードの力を借りて、そこに登場する八幡、熊野、日吉、北野、祇園(八坂)、稲荷などの神社を、神仏習合の観点から再考察してみた。
また、明治維新は神仏習合という長い歴史を断ち切り、「神仏分離」という宗教改革を成し遂げたが、今から考えると、この改革には「功」があると同時に「罪」もあったと思う。

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 この発表は以上のところまでで終っているが、この発表の先にまだ残されているものがある。神仏習合が現代社会のかかえる諸問題に、どのように関わってくるかという事である。
それは今後の重要な課題であると思う。(会員 住 邦夫)


第2部は、「城下町 伏見を語る」 林 寛治 監事です。
 豊臣秀吉が築いた伏見城の内郭部分は、今は明治天皇の伏見桃山陵となり立ち入ることはできず、昭和39年その外郭に建てられた鉄筋コンクリートの模擬天守閣に昔をしのぶばかりです。
伏見城は僅か31年の歴史であり、それも第1・2期の指月城と3・4期の木幡山城に分かれます。
秀吉は秀次に関白を譲ると、文禄元年(1592)隠居屋敷として宇治川近くの指月の丘に第1期指月城を築きます。そして秀頼が生まれ、明の講和使節を迎えることになり、屋敷は本格的な城として第2期指月城が完成します。

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 しかし、文禄5年閏7月13日の大地震により城は崩壊、第3期木幡山城が今の明治天皇陵の地に建てられました。
秀吉の晩年を飾るにふさわしいこの城で、慶長3年(1598)8月18日秀吉は63歳の生涯を閉じました。
慶長5年8月木幡山城は、関ケ原の前哨戦で西軍に攻められ焼失、戦後勝利を得た家康によって第4期木幡山城が徳川の城として再建されました。

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 ここで慶長8年家康、慶長10年には秀忠が勅使を迎え将軍宣下を受けています。
家康の江戸幕府将軍としての2年間は大半を伏見で政務に当たり、実質は伏見幕府でありました。
慶長20年大坂冬の陣で豊臣家が滅びると、伏見城はその役目を終え、元和9年(1623)の家光の将軍宣下を最後に廃城となりました。

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 今も伏見の町には条里制に基づき造られた道路が碁盤の目状に通り、「毛利長門」や「福島太夫」など大名の名がそのまま残されている36の町名に城下町の面影がしのばれます。
昔宇治川の南に広がり、城の要害となっていた巨椋池は昭和の初期に干拓され、今は向島団地に代わっています。
御香宮の表門は伏見城の大手門として名残をとどめています。(監事 林 寛治)

(広報部 岸本 幸子)