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活動内容

第92回研究発表会報告、安田 富枝 会員、切島 勇 会員・新井 滋子会員(18.2.13)

2018.02.20

第92回研究発表会報告、安田 富枝 会員、切島 勇 会員・新井 滋子会員(18.2.13)

◆日 時:平成30年2月13日午後1時10分~午後4時00分

◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表:1. 「平安中期に輝いた女性たち」 安田 富枝 会員

      2.「東海道あれこれ」 切島 勇 会員・新井 滋子会員

◆参加人数:41名

 

第1部は、「平安中期に輝いた女性たち」 安田 富枝会員です。

今から1千年余り前の平安中期は、女性たちがとても活躍した時代だった。その中の紀内侍、小式部内侍、
伊勢大輔の3人と清少納言、紫式部を取り上げる。

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1) 紀内侍

天皇の命を受けた臣下が、西の京のとある家から梅をもらい受け御所に持ち帰る。天皇がその梅をご覧になって
いると、枝に何やら紙が結びつけてあり、そこには歌が一首したためてあった。

“勅なれば いともかしこし 鶯の 宿はと問はば いかが答えむ”

天皇はこの歌に感銘をうけられ、詠んだ者の素性を調べさせたところ、紀貫之の娘・紀内侍であることが分かり、
天皇はその梅をお返しになった。その時からこの梅を、「鶯宿梅」と呼ぶようになったという。

2)小式部内侍

小式部は母親の和泉式部から、その美貌と歌の才能を受け継いだ。宮中で歌合せが行われることになり、
小式部内侍も歌人の一人に選ばれていた。ある日、小式部のいる局へ一人の若い公達がやって来て、
「歌合せの歌はもう出来たのか、母親から返事の手紙はもう来たか」などとからかった。その時、
小式部がとっさの機知で詠んだ歌が、  

“大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみもみず 天橋立”

というものだった。この若い公達は、返す言葉もなくほうほうの体で逃げ去った。この公達、名前を
藤原定頼といい、藤原公任の息子である。後に小式部は、定頼とつき合っている。

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3)伊勢大輔

一条天皇の中宮・彰子に仕えた女房で、代々歌人の家に生まれた。恒例となっていた興福寺から桜が届き、
歌を詠む大役を命じられる。家名を背負い中宮や貴族たちの前で詠んだ歌が、この歌である。

“いにしへの 奈良の都の 八重桜 けふ九重に にほいぬるかな”

無事に大役を果たした伊勢大輔は、幸福な結婚をして、晩年は白河天皇の養育係を務めたという。

以上の3人の女性は、「三才女」として明治の終わりに尋常小学校唱歌に登場している。

4)清少納言

一条天皇の中宮・定子に献身的に仕え、定子讃歌ともいうべき『枕草子』を書きあげる。漢文の素養が
あった少納言は、男性とも対等に話ができ、なかでも「平安の三蹟」の一人・藤原行成とは特に仲が良く、
そのやりとりの中で生まれた歌はつとに有名である。

“夜をこめて 鳥の空音を はかるとも よに逢坂の 関はゆるさじ”

宮中退出後は東山月輪に住み、友人の多い晩年だったと伝わる。

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5)紫式部

一条天皇の中宮・彰子に仕えた女房。周りの妬みやそしりから身を守るため、教養をひた隠しにして宮仕えを
するが後に彰子の父・藤原道長や殿上人にも重んじられた。著書に『源氏物語』『紫式部日記』などがある。
清少納言の悪口を書いてはいるが、おそらく顔も合わせたことはなかったであろうといわれている。
墓所は北大路堀川下る、小野篁の墓と並んである。

千年以上たった今も、『枕草子』『源氏物語』の二つを超える作品は出ていないといわれている。

(会員 安田 富枝)

 


 

第2部は、「東海道あれこれ」 切島 勇 会員・新井 滋子会員です。

東海道中あれこれ反省              

寒い中 たくさん来ていただき感謝しています  ①東海道の基本知識、②石部から三条まで
③京都での見物場所という三部構成のつもりでしたが時間配分等など反省点多々あります
この場をかりて補足などします。

1 用語説明補足

   一里塚=日よけの休憩場であり距離の目安場 見附=分岐点の監視場所

   女改め=女性だけ厳しく身体検査すること  問屋場=人場や飛脚の業務を行う

2 鉄道と宿場の関係とは

駅前=昔の宿場という場合と駅と宿場町がえらく離れている場合があります。
明治の初め駅や鉄道が来たら、旅人が歩いてくれないと猛反対した宿場があるそうです。 
今 風情が残る宿場町にはそういう背景があったりします。

3 草鞋について

1817年当時  東北 関東 東海道 中部を歩いて旅した女性の健脚に驚きます。草鞋は指が出てい
るので歩きやすいかもと説明しましたが、ジャンプの高梨さんも足袋型の靴下で飛んでいると判明!
                         (以上 新井)

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4 主な発表内容と感想   (以下 切島)

旧東海道五十三次 三条大橋~ 大津~ 草津~ 石部宿 間について     

53次道中を気楽に見て歩くことが先にあり、私の甘い計画が露呈した思いです。

大津市 月輪池一里塚、膳所御所、大津本陣、逢坂山の関、旧東海道電柱標識等
草津宿 草津本陣保存整備 表示、家屋保存など、矢橋道 矢橋湊整備、
「急がば回れ」の語源看板、 一里塚

石部宿は町政100周年記念行事として旧東海道石部宿復興事業とし旧跡を再現され史跡表示板の
一部建物、石碑、松並木を整備された。   

栗東市 和中散本舗史跡 一里塚 鈎の陣整備 、一里塚、
旧東海道一里塚の現況調べたところ、表示有りは五か所だった。                    

日ノ岡峠辺りで日本橋から124番目日ノ岡一里塚跡を探す不明
三条通、山科、京津線、追分駅地下道一号線に出て、大津方面に藤尾交番を右に回り込んで300米程行けば、
山科追分にでる、此処が旧東海道と伏見街道との別れになる、今来た道を引き返し大津方向

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月心寺,走り餅元祖、日本橋より123番目大谷一里塚跡を探すも不明
逢坂山の関所を越え大津宿へ、京津坂本線踏切辺りで122番目石場一里塚跡探すも不明 
旧東海道を粟津へ121番目粟津一里塚跡を探すも不明 

旧東海道を東へ瀬田の唐橋を渡りJR瀬田駅付近120番目月輪寺一里塚石碑在り
草津、119番目野路一里塚石碑在り ・やばせ道標、東海道別れ 草津追分、中山道、東海道へ
118番目目川一里塚石碑在り
・栗東市 117番目六地蔵石碑在り、石部宿116番目石部一里塚看板在り  

・始めに一里塚跡を見て回ることと思い込みが強く、以上のようなレポートになり各宿場の何に重きに置くかが
薄く自身53次道中記が中途半端なものになり、皆さんのご期待に沿えなかった思いです。

5 発見したこと、私の収穫

やばせ道のところで「急がば回れ」の語源はここにあることを知った。昔、旅人が大津に行くのにここから矢橋湊に行き舟で対岸の大津へ渡る近道をして荒れるびわ湖で遭難したので、近道をせず遠周りでも安全な陸路を行くようにと言われたそうです。「もののふの矢橋の舟は早くとも急がば回れ瀬田の唐橋」「瀬田に出ようかやばせにまわろかここが思案の乳母が餅」やばせに有名な「乳母が餅茶屋」があった。

ながたみどり画

ながたみどり画

6 感想

一里塚を目当てに進んだが日ノ岡峠辺りから東海道らしくなりましたが、日の岡にはなく、大谷一里塚もなく、大津へと進む、その道中に見た日ノ岡峠の亀の水不動尊 山科追分、走り餅、逢坂山の関所、大津本陣跡等で一日終わりこの先、どれ位やるのか不安な思いになった。新井さんと大津から石山まで同行しました折に東海道の神社仏閣が多くあり道中その様な物の取り上げ方も検討すべきであったと思いました。
それと長い工程の場合の写真の扱い方、実際終わって写真枚数が多すぎて自分自身困ったしどれをスライドにして発表すべきか迷いました、新井さんの東と西のつながりももう少しすべきだったと思っています。私自身初めてでむつかしかったです。

         (会員 切島 勇・新井 滋子)

 

         (広報部 岸本 幸子)