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第90回研究発表会報告、山本 喜康 会員・菊井 俊彦会員(17.10.27)

2017.11.03

第90回研究発表会報告、山本 喜康 会員・菊井 俊彦会員(17.10.27)

◆日 時:平成29年10月27日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 「没後百年 中川重麗(四明)近代京都のダ・ヴィンチ」 山本 喜康 会員
      2.『太子道を歩く』 菊井 俊彦会員
◆参加人数:27名

 第1部は、没後百年 中川重麗(しげあき)(四明)「近代京都のダ・ヴィンチ」山本 喜康 会員です。
今年は知られざる京都の偉人二人の年忌にあたりました。一人は本尊美博士の八十年、もう一人は中川
重麗・四明の百年でした。
本尊美博士の方は、秘書をされていた方の御子孫の方々が大切に保管されていた物を、下鴨神社の式年
遷宮を記念して納められ、諸先生方のお力添えにより、やっと「ポンソンビ展」として陽の目を見る事
が出来ました。

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中川四明の方は多岐に亘り目覚しい活躍のマルチ人間ぶりを発揮した近代人なのに、殆んど忘れ去られ
て語り継がれることがありません。このお二人は永年探求して参りました。
中川四明は嘉永三年(1850)二月二日生れ、京都町奉行与力下田耕助の次男に生れ間もなく、二条城番組
与力中川重興の養子となり、武術は養父に学問は大亦墨隠の塾。
十七歳の慶応三年(1867)将軍慶喜の退去を父と共に大阪まで淀川を送ります。
その後勉学の道に進み三計塾。欧学舎に入りレーマンやワグネルに学び通訳の任に当り府へ出仕します。

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25歳の時、小川流煎茶二代目の長女久江と結婚。師範学校が設立されると理化学の教科書を出版。
仙洞御所前で軽気球を初めて揚げる。やがて博覧会の評議員になり、知事に武徳殿の建設を建言したり、
京都薬科大学の校主を勤めたり、グリム童話「雪姫の話」を本邦初訳したり、日出新聞に入社し巌谷小波
らに俳句の手解きを受け、やがて正岡子規を知ることになります。
明治37年54歳の二月俳句雑誌「懸葵」を創刊し、59歳には絵専の講師嘱託となる。
60歳還暦を祝して「四明句集」を出版。61歳「觸背美学」を出版。65歳「魚八と道喜」を発表。
大正六年五月十六日逝去。68歳

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 「蒐集中の約三千句から各季三句つづを選出」
  【春】 
凧一つ 如意より低し 東山
      鶯や 膝に冷めたる 火熨鏝
      知恵貰ひ 後向かれぬ 花の山

  【夏】 投粽 申し請けたり 逆日傘
      知らぬかに 言はず詣での 行違ひ
      八ツ窓の 四ツまで月の 若葉かな

  【秋】 ニコライの 塔そびえけり 天の川
      落柿舎を 指さしている 案山子かな
      北嵯峨も もみづる頃を 鹿の鳴く

  【冬】 瓢亭に 湯豆腐吹くや しずり雪
      鴛鴦や雪に明けたる龍安寺
      寒梅に裾曳く長し節会人

  【新年】初霞如意は紫比叡白く
      白朮火を 輪に振る中に 人の顔
      笑はじと 妻かしこまり 薺(なずな)打つ   (会員 山本 喜康)


第2部は「太子道を歩く」菊井 俊彦会員です。
 旧来、二条という言葉は、東ではお城に、西では通り名に呼称として使われています。しかし、
その二条という言葉が、二条大路に由来するものなのか、条坊制の二条に由来するものなのか混乱
しています。足利義輝の二条御所は中御門大路の北にありますので二条の範囲外になりますが、史
料のなかでは二条の呼称が使われています。高橋康夫先生は『海の「京都」』という近著で、
「当時、相当広範囲の地域が、二条と呼ばれていた事実を示唆するものと理解しておきたい。」と
述べられています。
私も地名が地点を表現するようになったのは都市化の進んだ現代の話だと思っています。

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中近世においては小さな集落が点在するだけですから、呼称も広い意味を持つのも当然だと考えら
れます。足利義昭の二条城の南限は中御門大路を越えて春日小路近くにあり、義輝の二条御所跡地
に再興されていますので、二条という呼称は妥当とされています。その上で、「信長は、分散的・
二極的な地域集落であったこの上京と下京を、城と城下の建設によって、一元化、統合したのであ
る。」と結論づけされています。この後、秀吉・家康の都市開発を経て、現在につながる一つの京
都が形成されています。

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それでは本論の「太子道」に移ります。結論から言いますと、「太子道」は旧二条通の呼称に続く
一番新しい呼称です。大正9年(1920)施行の[道路法]によって自治体に道路の路線名の明示が義
務づけられました。その『京都市告示第二百五十二号』〈昭和3年(1928)5月24日〉に(新名称)
太子道←(旧名称)旧二条通と表記されています。昭和3年は市電西大路線の円町・四条間が開通し
た年で、「太子道」という駅が設置されました。このことから「太子道」という路線名も生れてきた
のではないでしょうか。

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「太子道」の前の旧二条通はどのように認識されていたのでしょうか。出発点である千本旧二条のバ
ス停前にありました出世稲荷社の『社寺境内外区別取調(絵図)』を見ますと、所在地が千本通二条
下ルと表記されています。江戸時代の『京都御役所向大概覚書』には二条通と記載されています。
同じく江戸時代の地誌類や『京都坊目誌』にも二条通と書かれています。『京都坊目誌』が世に出た
のが大正4年頃ですから、その頃までは二条通と認識されていたことになります。それがなぜ旧二条
通と呼ばれるようになったのかはよくわかりません。

「太子道」を歩いていて気になっていることがあります。六軒町通・七本松通間の南側の住宅が一間
程道路から下っています。これは明治5年(1872)~15年まであったという[町並一間引下令]
の名残りではないかと思っているのですが確証はありません。他に事例を見たこともありませんので。
                                 (会員 菊井 俊彦)

                                (広報部 岸本 幸子)