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活動内容

第87回研究発表会報告、菊井 俊彦会員・堂園 光子会員(17.04.21)

2017.05.04

第87回研究発表会報告、菊井 俊彦会員・堂園 光子会員(17.04.21)

◆日 時:平成29年04月21日午後1時10分~午後4時00分

◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表:1. 「室町通を歩く―室町頭を訪ねて―」 菊井 俊彦会員

      2.「古事記はおもしろいⅦ」- 堂園 光子会員

◆参加人数:38名

 

 第1部は菊井 俊彦会員より「室町通を歩く―室町頭を訪ねて―」です。
今日は鞍馬口通から今出川通までの「室町通」を歩いていきます。この室町通も戦国期には上京の惣構と下京の
惣構を繋ぐ唯一の通りでした。織田信長は天正9年(1581)に行った馬揃えで、宿所の下京・本能寺から上京・
内裏東の馬場まで、この室町通を行進しています。

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幕末・維新から150年というなか、新聞に“薩長同盟締結の地「御花畑」発見”という記事が掲載されました。
このキーワードが≪室町頭≫≪御花畑≫≪水車≫です。現在寺之内通下ルに「室町頭町」があります。しかし、
室町頭は室町通の北の端ということですから時代とともに移動しています。上御霊前通から鞍馬口通の間に
ある竹園町と森之木町も室町頭と時期によって認識されていたようです。

 まず≪室町頭≫森之木町から歩き始めましょう。森之木町には近衛家の別邸があり≪御花畑≫と呼ばれていました。
そしてここが薩摩藩小松帯刀の宿所でもあったわけです。この御花畑、史料から≪水車≫があったことがわかっ
ていますので、水路の存在が推測されていました。そしてここ森之木町は禁裏御用水の水路が通っているところ
でもありました。このように室町頭森之木町が“薩長同盟締結の地「御花畑」”として注目されているのです。

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次に≪室町頭≫竹園町ですが、明治初期に合併するまでは東側を竹屋町、西側を西園寺町と称していたようです。
文和3年(1354)、北山(現在の金閣寺の地)にあった西園寺が≪室町頭≫に移ってきたことによって西園寺町の呼称
になりました。室町通の上御霊前通から寺之内通の間に柳原・木下という地域があります。
「室町頭町」から惣構の北限までの地域なのですが、現在の私の知識ではイメージが描ききれていません。
もう少し勉強をしてお話ができればと思います。

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「室町頭町」の東側には柳原殿、西側には持明院殿がありました。
共に京外であるにもかかわらず、院御所として使用されていました。特に持明院殿を拠点とした皇統が持明院統
として北朝の流れになっていきました。

裏築地町の東側には花御所と呼ばれた崇光院御所があり、築山町には菊亭といわれた今出川家の屋敷がありました。
しかし永和3年(1377)の火災によってともに焼失し、跡地に足利義満が室町殿を造営しました。
このことによって上京=行政の町、下京=商業の町という枠組みがスタートしたといわれています。

 次回は「太子道」を歩いてみたいと思います。(会員 菊井 俊彦)


 

 

 第2部は堂園 光子会員から「古事記はおもしろいⅦ」です。
今回は応神天皇からです。“応神”というのは奈良時代に淡海三船(おうみのみふね)によってつくられた
漢風諡号です。
本当の名前はホムダワケノ命です。
因みに漢風諡号で”神“の字が使われているのは、神武・崇神・応神の3人の天皇だけです。
古事記・日本書紀はこの3人の天皇を特別扱いしています。

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 応神天皇は、神功皇后が三韓遠征中に生まれそうになったのを出産を遅らせ帰国してから筑紫(九州)で
産まれました。
それでお腹の中にいるときから天皇であるということで「胎中天皇」とも云われています。
 三韓遠征後浪速に凱旋するわけですが、そこには腹違いの兄である香坂王がホムダワケの命を殺して
自分が天皇なろうと待ち構えています。
オムダワケの軍隊はこれを大津の琵琶湖まで追い散らし勝利しました。ここからが河内王朝のはじまりです。

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 応神天皇には皇位継承権のある男の子が3人ありました。
大山守命・大雀命・宇治若郎子です。色々とありましたが大雀命(仁徳天皇)が継ぐことになりました。
古事記では仁徳天皇は非常に立派な天皇とされています。“ひじりのみや”とも呼ばれています。
ある日の早朝、仁徳天皇は高山へ登り四方を見渡すと国の中にはどこにも煙がたっていませんでした。
天皇は民が貧しくて朝食も食べられないのだと思い3年間税金を免除しました。

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そして3年後また高山に登って国見をすれば炊煙の煙があちこちから上がっていました。
仁徳天皇はこれで大丈夫だと思い税金を復活させました。これを大阪市の市歌で次のように歌われています。
 高津の宮の昔より よよの栄を重ねきて
  民のかまどに立つ煙 にぎわいまさる大阪市

 

 次は履中天皇からです。  (会員 堂園 光子)

                                       (広報部 岸本 幸子)