第61回研究発表会・報告 新井滋子会員、堂園光子会員(14.5.27)
第61回研究発表会(14.5.27)
◆日 時:平成26年5月27日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 「教科書の中の京都」新井滋子会員
2.「古事記はおもしろいⅢ」堂園光子会員
◆参加人数:42名
◆参加費 :300円 一般参加費 :500円
第1部の新井会員は今回が初めてのご発表ですが、中学校社会科教諭を30年勤められた新井会員ならではの目線で今回のテーマを決めて下さいました。
まずは、社会科教科書の変遷を時代を追って解説下さるところからスタートしました。
明治期初めの教科書は意外とグローバルだということは、理由を知ると大いに納得しました。その内容は文明開化の時代にふさわしく、積極的に西洋文明を取り入れようとする意気込みが感じられるものとなっています。その後、日本は天皇中心の近代国家形成を目指すにつれ、就学率も上っていくなか、教科書の役割は非常に大きくなります。教科書の内容も時代とともに変化していき、歴史教科書は人物を中心に語られるようになります。選ばれる人物もほとんどが天皇や忠臣。1930年代の教科書は、最後の章に<国民の覚悟>という項が付け加えられ、戦争を強く意識したものになりました。
終戦直後は有名な黒塗り教科書。実際は黒塗りが多すぎて使えないという状態だったそうです。その後、文部省がGHQのチェックを受けながら教科書を作った時代、カリキュラムを各地域で研究した時代を経て、今は教科書会社が「教科書検定」を受けて教科書を発行します。基礎基本を系統的に教えるという目標があります。
次に、新井会員の調査結果。
教科書で各時代がどのくらいの割合で記述されているのか表していただきました。
実際の長さで言えば平安時代が一番長く、次は江戸時代・・・と続きますが、教科書では江戸時代と明治時代が圧倒的に多く、現代・・・と続きます。もともと平安時代から安土桃山時代の800年間の歴史に取り上げられることの多い京都ですので、益々教科書の中の「京都」の記述が少なくなってしまいそうです。
また戦前の教科書で、京都を「都の疲弊」として否定的に捉えた記述がみられるのに対し、1947年文部省発行の教科書ではまるでガイドブックのような好意的な内容で京都が紹介されていて非常に興味深いです。
さらに、教科書に掲載されている京都関係の絵や写真を時代を追って一覧表に並べてみられました。表にすると、戦前はほとんどが人物に、戦後は文化に重きを置かれている傾向がよくわかります。それに呼応するように京都に関係した写真が増えているのもよく分かります。表にして初めて分かったのが、平等院の掲載の多さ。 絵が教科書に掲載されるようになる1912年頃からずっと変わらず掲載されているのは驚きです。
一方、修学旅行生にこんなに人気のある清水寺の写真はほとんどありません。
1.なぜ清水寺の写真がないのか
2.教科書に清水寺がないのに、なぜこんなに修学旅行生に人気があるのか
グループ討議でこの2つの問題を話し合って、参加者の皆さんに意見を出し合って貰いました。活発な議論の後は、これら教科書に登場する京都関係の絵画資料や写真資料のスライドを見せていただきました。(記事 松枝しげ美)
第2部は堂園光子会員より「古事記はおもしろいⅢ」の発表です。前回は因幡の白兎までのお話でした。
ウサギを助けたオオナムチはウサギに「ヤカミヒメはあなたを選ぶでしょう。」と予言されました。オオクニヌシノミコトの名前は最初、オオナムヂと呼ばれていました。古事記では5種の呼び名があり、日本書紀では7種の呼び名があります。因幡の白兎を助けた後、2度も兄弟神に殺されるも母のおかげで紀伊の国(和歌山県)のオオヤビコノカミのところへ避難しました。
古事記では、紀伊の国は木の国です。オオナムチは木の穴を潜り黄泉の国のスサノオノミコトを頼ります。現在の和歌山県に伊太祁曽神社があり、祭神が大屋毘古神と五十猛命 (いたけるのみこと)です。五十猛命は日本書紀に出てくる樹木の神様で、サノオノミコトの子供です。伊太祁曽神社には木のまたくぐりがあり、観光客に人気です。
スサノオノミコトのところへやってきましたオオナムチは娘のスセリビメと出会い、二人は結ばれました。オオナムチはスサノオに蛇の部屋、ムカデと蜂の部屋に入れられるもスセリビメの助けで救われます。さらにスサノオから鏑谷を取ってこいと野原に入ったところ火を放たれ危機一髪のところねずみに助けられます。
哲学の道に大豊神社があります。大国主命が祭神で、狛犬は命を救ったねずみです。次にスサノオは頭のシラミをオオナムチに取れと言い、見ると頭にはムカデがいました。それもスセリビメの機転で助けられ、スサノオが気を許し眠っている最中にスセリビメと遠くまで逃げることができたのです。
スサノオは二人の後を追って来て呼びかけます。「おまえはオオクニヌシノカミとなり、スセリビメを妻とし、千木を建て、国を統治しなさい。」その後オオクニヌシとスクナビコノカミは二人で協力し、葦原の中つ国(日本)を造りあげていきます。しかしスクナビコノカミは常世の国に行ってしまいました。次に現れたのがオオモノヌシノカミです。
そしてアマテラスオオミカミが突然でてきます。葦原の中つ国は私の長男のアメノオシホミミノミコトが治める国です。アメノオシホミミノミコトが来た天の浮橋は、丹後風土記に天橋立とあります。天の浮橋から下界を見ると騒がしいので整ってから降りたい。のでアメノホヒノカミを下界に使わせました。アメノホヒノカミは現在の出雲大社の国造家につながる千家氏です。アマテラスオオミカミに関するタイムリーな話題で「高円宮家の次女、典子さまと出雲大社の神職、千家国麿(せんげくにまろ)さんの婚約が内定した。」が当日にありました。
アメノホヒノカミは3年経っても帰ってこないので、次に高天原で一番よい弓と矢をもたしてアメノワカヒコを葦原の中つ国に使わした。アメノワカヒコは葦原の国を自分が支配してしまおう。と邪な考えを持ちます。その結果、自分が放ってキジを殺した矢でタカミムスビノカミの呪文によって矢が当たりアメノワカヒコは死んでしまいます。妻のシタテルヒメは悲しみ号泣。高天原に住んでいるアメノワカヒコのお父さんのアマツクニダマノカミや、本妻が下界に降りて殯(もがり)をします。
殯とは、死者を生き返らすための儀式です。現在の皇室にも天皇の棺を安置するための殯宮(ひんきゅう)の間があります。この時、アジスキタカヒコネという神さまがやってきました。アメノワカヒコのお父さんや妻はアメノワカヒコに似ているアジスキタカヒコネを見生き返ったと勘違いしました。
間違えられたアジスキタカヒコネは怒って喪屋を蹴って美濃までとばしました。神道は穢れがつくとすぐに祓います。奈良の葛城山に飛んだと思います。御所市の葛城山の麓に高鴨神社があり、祭神がアジスキタカヒコネです。
次はタケミカヅチの派遣です。アマテラスオオミカミはアメノトリフネとタケミカヅチを伊耶佐(いざさ)の小浜へ派遣しました。伊耶佐の小浜は出雲大社の西にある稲佐の浜です。タケミカヅチは強く、オオクニヌシの子供二人からも恐れられ葦原の国はアマテラスオオカミのお子様に差し上げます。と云われました。オオクニヌシは高天原に届くほど高い千木の立派な建物を造っていただければ私はその暗いところに隠れております。タケミカヅチはオオクニヌシのために出雲大社を造りました。
次回は天孫降臨からです。 (記事 岸本幸子)