第60回研究発表会・報告 伊藤孝幸会員、菊井俊彦会員(14.4.22)
2014.07.13
第60回研究発表会(14.4.22)
◆日 時:平成26年4月22日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1. 「京都のホタルと鴨川のアユ」伊藤孝幸会員
2.「京都の小さな道(その2)」菊井俊彦会員
◆参加人数:48名
◆参加費 :300円 一般参加費 :500円
第1部は今回の研究発表が初めての伊藤孝幸会員より「京都のホタルと鴨川のアユ」です。三重県出身で樟葉にお住まいの伊藤さんが京都でホタルと最初に出会ったのが平成23年の6月11日でした。場所は市内最古の道標が立つ三条白川橋を下った所にあるヤナギの木でした。自然観光に恵まれた京都は文化と自然が共生されています。その中から自然に視点を置いて調べてられました。
環境省による川の水質・清濁度区分によると水質階級2の少しきたない、水がやや濁っているところ にゲンジボタル・カワニナ・アユがいます。鴨川の水質はこのあたりのようです。ほたるについて調べて視ると新聞記事で左京区のご自宅でホタルを育成されている方を知りました。ホタルを育成するにあたり環境を整えることが大事で、そのホタルを川に放ち子供達に見せることによって自然の良さを伝えて行く教育にもなります。それを知って以来、ホタルにのめり込んでいきました。ゲンジボタルの場合その一生は卵から成虫になるまでに約1年かかり、生涯の大部分は水中で生活し成虫になってからの寿命は3日から10程度の儚い命です。
カワニナ(小さな巻貝)を食べて成長し私たちに綺麗な姿を見せてくれてる間の成虫になってからは食事をしないようです。生息に必要な環境は薬品が水に流れ込まず、流れや深さに変化があり25℃以下の水温であることが必要で、川辺周辺は樹木・雑草が生え人口照明がないことです。ホタル観賞のポイントは夜の8時頃から9時頃で5月下旬から6月中旬です。京都地方気象台では哲学の道でのホタル観測を実施しています。他におススメ観賞ポイントは白川狸橋、有栖川、みそしぎ川、一条戻り橋辺りの堀川などです。ホタルが飛び交う自然環境を市民や観光客にアピールすることができればと思います。
鴨川のアユの現状は現在、鴨川のシンボルに向け天然アユ遡上復活作戦が展開中です。天然アユなど が息づく自然を取り戻し、自然の恵みを活かすことが目的です。「京の川の恵みを活かす会」により実施されています。アユの一生は冬に海で動物プランクトンを食べ成長し春に若アユが群れをなして川を上り始めます。夏にアユは川底の苔を食べて成長し秋に産卵のために川を下り川の下流部の瀬で小砂利底に卵を産み付け一生を終えます。卵は2週間ほどでかえり海へと流れていきます。大阪湾で成長した若アユは、春になると京を目指して淀川を上り始め淀川大堰を通過し桂川に進路をとります。24年夏の40日間調査では約3万匹、25年夏は約2500匹でした。雨が少ないとアユも少ないようです。ホタルもアユも自然を介して観賞する難しさがありますがとても有意義で楽しいです。(記事 岸本幸子)
第2部は菊井俊彦会員より「京都の小さな道(その2)」の発表をして頂きました。
2回にわたり「京都の小さな道」をテーマに小路・辻子・突抜・切通・路地・切り離された道についてお話をしました。いつものようにテーマから大きくそれたお話が多かったので、皆さんに楽しく聞いていただけたか心配しています。
今回の(その2)は路地には名前が付けられているものがあり、地元で大切に守られていること、また番号で呼ばれている路地もあることなどのお話から始めました。路地の表記を見ていますと、「路地」・「路次」・「露地」と多様です。
切通には今のところ三種類あると考えています。例をあげますと、①平野神社と北野天満宮を結ぶ平野道が御土居を切り抜いているところ、②寺町の新島襄旧宅の北側、下切通シ通は宝永の大火後に建物を切通して造られた道ですが、河原町通に抜ける部分は①と同じ概念です。③この他に大きな境内地を切りぬいた道にも切通しの表記があります。東大路通三条上ルにある満足稲荷神社の江戸時代の地図を見ますと、鳥居の前の道に「切り通し」と表記されています。
丸太町通が拡幅・延長される中で切り離された道が三つあります。①河原町通~寺町通、②松屋町通~日暮通、③千本通~七本松通の三ヶ所です。②、③はこの南に京都府監獄が昭和2年まであったために、丸太町通が北に斜行して造られました。この影響で切り離されたわけです。
関連で牢屋敷を調べていますと、「六角牢屋敷の表門が南禅寺・法皇寺に移築されている」というのがありました。早速、テーマから脱線して、法皇寺(=牧護庵)・満足稲荷(法皇寺鎮守)・金地院・妙法院・智積院・豊国神社と訪ね歩きました。法皇寺は、早良親王が幽閉された乙訓寺を宇多法皇が行宮にされたことで名を変えたものでした。この後、法皇寺は元禄6年、東山大仏の東、文殊院跡に移され、さらに宝永5年満足稲荷のある地に移転し、明治に入り、廃仏毀釈の影響をうけて牧護庵の地で法皇寺の名を残しましたが、平成5年、牧護庵の名の復活により消えてしまいました。
広隆寺に参詣するための道=太子道、古い道だと考えていました。しかし、道路明示では昭和3年の京都市告示によって、旧二条通が太子道に変更されたものだとわかりました。江戸時代から大正頃までは二条通であったようですが、なぜ旧二条通と呼ばれるようになったのか、江戸時代以前にはどのように呼ばれていたのかは分かりませんでした。
次回は通りに戻って「松原通」についてお話をしたいと思っています。堀川通から清水寺までを歩きます。(記事 菊井俊彦)