第44回研究発表会(12.10.25)
2012.10.28
第44回研究発表会(12.10.25)
◆日 時:平成24年10月25日 午後1時15分~午後4時
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1.『桓武朝の考古学~桓武朝研究100年を前に~』 國下多美樹 氏
2.『京都の知られざる人々2~中川重麗』 都草会員 山本喜康
◆参加人数:32名
◆参加費 :500円 一般参加費 :700円
第1部は長岡京の調査をされ、現在は龍谷大学文学部の教授である國下多美樹先生より「桓武朝の考古学」についての発表です。広島県尾道出身で京都での大学生時代より35年間埋蔵文化財や遺跡の発掘調査に携わり、古代都城を専門に研究しております。研究するにあたり刺激を得た研究者は中山修一・福山敏男・杉山信三・高橋美久二の方々です。私が話すテーマ中には「遺跡で学び、時代を再現する楽しさ」があります。現地に行くと文献資料には記載されていない記録が大地には刻まれており、その発見の感動の繰り返しが研究の動機になっています。
考古学は物から出発して時代を考えていきます。19世紀末から20世紀初頭の桓武朝研究には京都を再興しょうとする機運・平安京遷都論・近代化思想があります。1894年日清戦争が起こった年がちょうど平安遷都1100年でした。記念行事として平安神宮が造られ過去を学ぶ姿勢が起こってきました。桓武朝について最初に研究されたのが久米邦武先生です。近代歴史学の先駆者で平安京遷都についての疑問を最初に述べられています。その回答は要害を具したる平地であったとされ、その後の研究の礎になりました。そして湯本文彦先生は平安京についての資料が網羅された「平安通志」を出版されています。それには現地を実測され作成された、重要な現地に比定する地図が添付されていています。喜田貞吉先生は東大の歴史学者で論文「帝都」を書かれています。長岡遷都の問題点を具体的に指摘され、長岡京廃都と平安京遷都の見解を明確に書かれ、この研究は引き継がれ現在も活きています。
20世紀前後半の研究はそれまでを見直す時代になり、考古学的調査の開始と桓武朝革命思想が登場してきました。喜田先生の問題意識は引き継がれましたが長岡京廃都・平安京遷都の要因をめぐる喜田先生の批判的な論考があり1950年代に集中的に論文が書かれました。しかし新しいことは出てこない停滞した時代でした。画期的になってきたのは昭和30年代長岡京朝堂院南門の発掘です。平安京の最初の発掘は角田文衛先生の「平安京提要」にある平安京勧学院跡です。それまで文献資料で考えられていたことに、考古学的なメスが入った時代で、実際に遺跡を求めて発掘が始まりました。福山敏男先生が朝堂院の建築史的研究を「大極殿の研究」という冊子に残され朝堂院の復元図を作成されています。中山先生と調査され、中山先生は実際に現地を歩き都の研究をされました。先生の頭には平安宮の配置を長岡宮に落としていますが、結果としては違うものでした。小安殿については向日市が再発掘調査をした結果、疎石の下に基礎石を入れ丁寧に造られた跡があり、極めて立派な建物だったことがわかりました。
京域の解明と条坊制研究では高橋美久二先生が最初で、1975年に長岡京で道路跡を確認し条坊があったことが確定さました。これにより広大な領域を調査するきっかけになりました。現在100年の研究を超え言えることは、長岡京は自然災害により機能しなくなりましたが奈良時代の伝統を引き継ぎ平安京に継承された革新の永遠の都として設計されたと考えられます。桓武朝都城の実態解明は真の歴史的意義を知るための最大の課題となっています。
第2部はお地蔵さんマップの挿絵を描かれた山本喜康会員で「京都の知られざる人々2」です。前回は本尊美利茶道(リチャード・アーサー・ブラバゾン・ポンソンビー・フェイン)日本贔屓の英国貴族のお話でした。今回は中川重麗(しげあき)・紫明・四明についてです。明治100年という京都新聞の連載に紫明の名前がときどき掲載され興味を持つようになりました。中川は嘉永3年、ペリー黒船来航の3年前に京都所司代町奉行組の与力の家に生まれました。名前がどんどん変わりペンネームを入れると57の名前を使っています。後に夫人となる小川久江は中川が4歳の時に煎茶の小川其楽の長女として生まれました。
9歳の時に大砲の試射で片耳がしばらく聞こえなくなりました。文久3年中川が14歳の時徳川14代将軍家茂が二条城に入ってきました。蛤御門の変の時には二条城も類焼し城番をしていた中川家は消火活動に励みました。大政奉還により徳川慶喜は二条城西門から淀へ出て江戸に退却しました。この時に中川は父と共に同行しました。江戸時代の与力は明治には京都府平安隊になり8年には京都府警察になりました。中川は明治元年、19歳で京都仮大学の最初の入学生になりました。21歳の時に東京へ遊学のため京都府警護固方を退き安井息軒の三計塾に学ぶ。ここから中川の勉学が始まります。ルドルフ・レーマンよりドイツ語を学び自身は日本語を教えました。24歳でレーマンと共に和訳独逸辞典完本2冊を出版しました。27歳で物理雑誌を発行し以後多くの教科書を編集・発行していきます。30歳で博覧会品評人事部長に任命され、京都府より多くの役職を任命されるようになりました。
明治14年、32歳の時には北垣知事に対して体育演武場設立を建言し武徳殿ができました。35歳で現薬科大学の前進である私立独逸学校を設立し校主(校長)になり、翌年には東京大学予備門教諭になりました。この年に京都新聞の前進の日出新聞が発行されました。40歳で美術園・光の美を発表し美学への道にも進んでいきます。現在の白雪姫の翻訳を最初にされたのも中川です。41歳で新聞日本を退社しましたが入れ違いに、明治23年9月に正岡子規が入社しました。45歳のころ日出新聞の親睦会で結成された瞳々会が、後に俳句の会になりました。翌年に京都の新案内記を出版、この年に名前を重麗から紫明に変更。以後目まぐるしく変わっていきます。明治31年には俳誌ホトトギスが発行されることになり正岡子規より原稿の依頼をうけ、33年には京都日出新聞の俳句選者になる。京都十七日会(家康の命日)は京都駅に徳川慶喜を送迎したり、35年の7月17日には慶喜を金地院に迎えたりしています。
正岡子規が35歳で死去した時には追悼文を京都日出新聞に掲載しました。41年には美術書の出版と新聞掲載を多く書いています。觸背美学は竹内栖鳳や高橋由一に影響をあたえました。明治43年には還暦をむかえ京都俳人仲間によって祇園中村楼で盛大に祝賀会が開かれました。この時代には隠居届の提出が必要であったようです。隠居後も活躍され独逸の美術学者クルト・グラーゼル夫妻の京都案内を富岡鉄斎と共にしています。大正6年5月16日に急性肺炎のため永眠。享年68歳。5月15日の葵祭を避けての死去でした。昔の方は住んでいたところをペンネームにされました。最後に57の名前のなかで面白かったのが銅駝餘霞楼(どうだよかろう)です。
中川重麗の24ページの年譜を駆け足で説明していただきましたが、32ページある俳句の説明までは時間切れとなってしまいましたので、近いうちに発表して頂くことになりました。次回を楽しみにしております。ありがとうございました。
(事務局 岸本幸子)