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活動内容

第37回研究発表会(12.2.27)

2012.03.02

 

第37回研究発表会(12.2.27)

◆日 時:平成24年2月27日午後1時10分~午後4時
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1.『足利尊氏と縁ある人々』角川英男氏
       2.『伏見の町の変遷』都草監事 林寛治
◆参加人数:53名
◆参加費 :500円   一般参加費 :700円

 第1部の足利氏についてお話して頂いた角川英男様は大変研究熱心な方で足利氏や江戸について独自に研究しまとめ自費出版されています。その中から今回は足利家から見た鎌倉・室町幕府についてのお話でした。
 京都駅の八条口の前の八条通から西に行くと東寺。東寺の北を通って壬生に行くと源氏にゆかりの六孫王神社があります。清和天皇の孫である源経基を祀っています。「源」姓の始まりは嵯峨天皇の皇子から8人が臣籍降下を賜り貴族化しました。これは朝廷の経済事情から行われました。光源氏のモデルになった源融が有名です。嵯峨天皇からの流れを嵯峨源氏・清和天皇からの流れを清和源氏と言います。清和源氏には公卿が現れていない特徴があります。

 

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それは清和天皇の息子の陽成天皇が暴君であったことからです。宮中で殺人事件を犯してしまいました。陽成天皇は廃帝され清和天皇の流れが途絶えました。それ以来、武勇で権勢を示すようになりました。足利氏は清和源氏で、八幡太郎義家の孫義康が下野国足利庄によって、足利氏を称したのに始まります。足利尊氏は鎌倉幕府打倒の為、亀岡の篠村八幡宮で旗揚げをしました。後に京都で室町幕府を開く幕開けの場所になりました。この鎌倉討幕を計画したのが後醍醐天皇です。後醍醐天皇は船上山から討幕の綸旨を各地に発し、鎌倉幕府と対決する姿勢を強め、足利尊氏などの手により念願の倒幕に成功しました。

 

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 足利尊氏が攻めた六波羅探題は鎌倉幕府の京の出先機関で西地区の要でした。この戦いは一日で決着がつきました。鎌倉幕府最後の執権・北条高時は新田義貞に攻められて鎌倉東勝寺にて一族ともども自刃しました。後醍醐天皇は意気揚々と京都へと戻り「建武の新政」を開始するのでした。「延喜・天暦の治へ帰れ」という合言葉がありましたが、全ての事を天皇自らすることに問題が起きました。全ての問題が朝廷に持ち込まれ決済が間に合わなくなりました。後に天皇家にも対立が起きました。西園寺公宗を中心に後醍醐政権の転覆を図りました。後醍醐天皇は足利尊氏に総大将を求めると、尊氏は征夷大将軍になることの条件をだす。それは後醍醐天皇にとっては源氏の再興になる気配がしたので受け入れられません。

 

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 尊氏は弟の直義と合流し鎌倉に入り北条時行軍を撃破する。尊氏はそのまま鎌倉に止まり新邸を造りました。これは朝廷に対する謀反ではないか。ということで後醍醐天皇は尊氏追討命令を出します。尊氏は光厳院の綸旨を貰い新田義貞を打ち破ります。足利氏は自分達で光明天皇を立て将軍宣下をいただき室町幕府を創ります。後に尊氏は夢窓疎石に禅の教えを乞うようになります。夢窓疎石が後醍醐天皇を鎮魂する寺を建てることを勧めた。それが天龍寺です。次は尊氏・直義の兄弟での争いになりますが、第3代将軍義満が南北朝の合一を果たし室町幕府の全盛期を向えました。第8代将軍義政の時代に応仁の乱が興り後の足利家は形だけの物になりました。第15代将軍義昭が織田信長に追放され室町幕府が終わりました。
 細部にわたりの説明がありよく分りました。ありがとうございました。


 第2部は前回伏見城のお話をして頂いた林監事に、今回は伏見城が無くなった後、どのように町が変遷してきたのかについて楽しく語って頂きました。伏見で生まれ育った者は河原町に出るのに、「京都に行く」と言います。他府県の方から見れば同じ京都なのに何故、そのような表現をするのか不思議に感じられる方もいらっしゃると思います。しかし伏見に住む者は「太閤さんが居た町」という自負を持っています。伏見は伏見城が在っての伏見の町です。秀吉に始まり徳川幕府も家康は江戸ではなく、実質は伏見城ですごし、秀忠・家光も将軍宣下を伏見城で受けました。徳川幕府は伏見城から始まりました。

 

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 廃城後の伏見は人口6万人から2万5千に減り、大名屋敷は畑に変わりました。土の状態も良くなく畑としても上手く使えませんでした。大阪天満の市場の情報でクロニと言う桃が売れていることを知りました。その情報は大当たりで、桃は非常によく育ち3万本程栽培されました。桃の実だけではなく花も美しく吉野の千本桜以上だったという記録があります。しかし江戸の末期には何故か梅畑に変わっていました。梅の花も綺麗でした。明治以降になるとどういう訳か茶畑に変わっていました。伏見城の事を桃山城とよく言いますがお城があった時には桃はありません。桃山が町名として登録されたのは、伏見市になったときです。また伏見は日本で一番お寺の多い町です。徳川家康が浄土宗だったため半数は浄土宗の寺です。大名の町名は36残っています。一番面白い町名が「永井久太郎」です。町名なのに人の名前と間違えられた郵便物が多かったようです。

 

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 城の無くなった年に伏見奉行所を預かっていたのが小堀遠州です。京都所司代の手伝いをしていたので、小堀遠州が亡くなった後の水野忠貞が初代と言われています。伏見義民・天明義民がありました。17世紀後半からは港町として栄えます。全てを数えると2,000隻程あり大変賑わいました。30石船で28人乗りです。寺田屋の船は特急料金が付いていて早かったようです。その頃の料金を計算してみると上りが3000円位で下りが1500円位だと思います。明治2年に蒸気船が出た為に、明治10年で30石船は廃止になります。高瀬川は高瀬船という底の浅い舟を通すので高瀬川と呼ばれました。高瀬船には人は載せずに荷物だけです。森鴎外の小説では罪人を運んでいますが、どうかな、と思います。唯一人を運んだのはお稲荷さんの初午の時です。

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 宿場町と言えば参勤交代で賑わいました。将軍にお目見えするのが参勤で、交代と言うのは一旦役目を終えて国に帰ろうとしている様子です。全国大名に義務つけ行われました。参勤交代の宿が幕末の藩邸に使われています。参勤交代の大名は京都を通っていません。朝廷と繋がることを恐れ幕府が禁止しました。寺田屋は特に薩摩藩と仲がよく勤王の志士達が集まったとこです。文久2年には島津久光の命で有馬新七等が討たれました。坂本竜馬が幕吏に襲われ、傷を癒す為にお龍さんと薩摩に旅行に行ったのが世の中の新婚旅行の始まりです。寺田屋は鳥羽伏見の戦いで焼けてしまっているので、今ある寺田屋は当時のものではありません。まだまだ話はありますが続きはまた次回にという事になりました。

(事務局 岸本幸子)