活動内容

第49回研究発表会(13.4.14)

 49回研究発表会(13.4.14)

◆日 時:平成25414日午後115分~午後4
場 所:ひとまち交流館 京都 3
研究発表:1. 「四座雑色が京都に残した足跡」都草会員 橋本幸郎
        2.「山本覚馬(八重の兄)の生涯都草会員 酒井源弘
参加人数:37
参加費 :300   一般参加費 :500

 2010年の研究発表会でのテーマ「四座雑色と京都町組」に引き続き、「雑色が京都に残した足跡」を見ていきたいと思います。京都における江戸時代の武家の人名録である「京都武鑑」には、各武家の名とともに、雑色の名も記されています。それでは雑色はどんな役目を担っていたのでしょうか。

 

 

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1.四座雑色の成り立ち

江戸に幕府を開いた徳川家康は、京都の治安維持・西軍敗残兵処理のための奥平信昌を、そして翌年にはその後任に板倉勝重を任命しました。勝重は下働きに、室町時代から続いている小舎人雑色四家を、当時の繁華街であった四条室町の辻を基点に四方に区分をし、山城國中の触頭に任命し京都の町を任せた。四つの地域を四方内と呼び、それぞれの持ち分を方内と呼んでいる。上役の雑色が四人いたので、四座雑色と言われました。祇園会や二条城の築城に利用したと考えられます。雑色四家を上雑色と呼ばれ、配下に下雑色と呼ばれる八家がありました。
 寛文8年(1668年)の幕政改革で、町奉行所体制が敷かれるのにともない、雑色四家も所司代から町奉行支配下に入りました。特に京都では、雑色が町奉行所の職務を助けていたことが特徴で、幕府の京都支配の末端組織の役人として、行政・警察・司法と広範にわたる多様な職務が与えられていました。身分階級も与力・同心よりも下でしたが、知行が与えられていました。

 

 

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2.雑色の職務

『京都御役所向大概覚書』や『京都雑色記録』に、雑色は禁裏においての行事の警固、幕府の触を行き渡らせる「町触」の伝達の重要な役目や、所司代・町奉行所の下働きを行なっていた事が記されています。老中など幕府重鎮上洛時の送迎・警固をはじめ、京都の町の治安の維持、夜廻り・風廻り、盗賊・火付けの取り締まり、囚人の処刑など、行政・警察・司法と広範にわたる多様な職務が与えられていました。 また、社寺の神事に従事し、祭日の警固、鴨川原での芝居興行・相撲興行の警固など、民政においても取締りを行なった。

 

 

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3.おわりに

徳川慶喜が大政奉還を奏上し政権を朝廷に返上した慶応3年(1687年)以降、王政復古の大号令で将軍は廃され、京都両町奉行も廃止され、膳所・篠山・亀山の三藩で京都市中取締役に任じられ、雑色は膳所・篠山・亀山三藩の承認の下、従来の職務が認められましたが、慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発し、旧京都東町奉行所に市中取締り役所を開設した新政府は、幕府機構役人であった雑色の任務を取り上げ、解散させた。

ここに室町時代からの歴史をもち、江戸時代260年もの間京都の治安に勤めてきた四座雑色の名は、古文書に名を残すのみとなってしまいました。

(記事 松枝しげ美)


 第2今回は今放送中の「八重の桜」という大河ドラマで主人公八重の兄である「山本覚馬」という人物を取り上げ、都草の会員の中でも幕末のスペシャリストと言われている酒井源弘会員に講演をしていただきました。

  まず覚馬を語るには会津を語らなければならず、会津を語るには会津藩の初代藩主である保科正之を語らなければならないということで、正之が残した15ヶ条の家訓(かきん)から話を始められ、これがあるがために容保は京都守護職という火中の栗を拾うようなお役目を引き受けねばならなかったこと。それから長男と次男は尾張藩主徳川慶勝と茂長、三男は会津藩主の容保、四男は桑名藩主の松平定敬という優秀だった美濃高須藩の四兄弟の話。そして会津魂である「什の掟」の話をされました。

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 それからいよいよ本題である山本覚馬の生涯について話を始められました。
文政11年(1828)に会津若松に生まれた覚馬は聡明な母の元すくすく育ち、9歳で藩校「日新館」に入学し、24歳で江戸へ遊学し、佐久間象山の門下生となり、砲術や蘭学を学び、安政3年(1856)に江戸から帰還後「日新館」の教授として迎えられ、「蘭学所」の設置と「兵学改革」を建白することになります。
文久4年(1864)容保は京都守護職として1000名の藩士を従えて上洛、ともに会津を出発した覚馬は再び会津に戻ることはありませんでした。

 

 

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 禁門の変で活躍した覚馬でしたが、この後彼の視力は著しく減退していきました。覚馬は藩命により長崎に行くことになり、その時にオランダ人の名医に眼病の治療を受けたがもはや手術の時機を逸し手遅れでありました。
 そして戊辰戦争後、覚馬は捕えられ薩摩藩邸に幽閉されましたが、「管見」というこれからの日本のあるべき姿を著した意見書によって許され、京都府の嘱託となり後に京都府知事となる槇村正直、そして明石博高とともに衰微していった京都の復興に尽くすことになります。

  京都を日本一の工業都市へと更生していった覚馬はまた、新島襄との出会い、「同志社英学校」の設立、そして京都府からの突然の解雇、第一回府議会議員選挙の当選、初代府議会議長、明治18年には二代目の京都商工会議所会頭への就任などを経て、明治2564歳で亡くなるまでの生涯を、史実と数々のエピソードを交えながらお話くださいました。

 

 

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 盟友と言われ「小野組事件」の際には窮地を救った槇村正直との意見の対立による別れ、プランナー・プロデューサーとしての一面だけではなく金儲けのうまい実業家としての顔を持っていた覚馬。いろいろと知らないことを教えていただきました。
 数年前までほとんど知られていない百数十年前の歴史上の人物。しかし今は知らない人はいないだろうという、テレビというメディアのすごさに驚かされる「山本覚馬」という人物を、幕末という激動の歴史の中に置いて、わかりやすくその一生をお話ししてくださり、最後にはなんと「覚馬」と「八重」が好きだったといわれる讃美歌を歌って、あっと驚くみんなを尻目にひょうひょうと講演を締めくくられた酒井さん。
楽しい90分をありがとうございました。

(記事 西野嘉一)

(事務局 岸本幸子)

 

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