第29回都草研究発表会(11.6.3)
2011.06.06
★‘佛教’…あらましを誠実な語り口でお話くださいました
第30回都草研究発表会(11.6.3)
◆日 時:平成23年6月3日(金) 午後1時10分~午後4時
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1.『佛教の歩みと都の人びと』 藤井節雄 都草会員
2.『仏教用語の読み方』-寺社の名前から探る- 福井大筰 都草会員
◆参加人数:35名
◆参加費:300円
‘佛教’という言葉は明治以後の言い方であり、それまでは、佛法、佛道、ほとけのをしえと言っていたという。
様々な呼び方のある釈迦。初めに、釈迦がガンジス河中流域で、45年間民衆教化のため遍歴したゆかりの地についての説明がありました。釈迦の教えは、入滅後数百年は弟子の暗記により保持されました。約2000年前位から経典が成立します。そして西域を経て仏教が中国に伝わり、漢文に翻訳され、朝鮮半島から日本に伝わりました。欽明天皇の御世から、近世までの佛教の流れでは、政権が天皇公家から武士に変わった鎌倉時代の新仏教のところにダイナミズムを感じました。
一宗一派を開いた祖師達は、比叡山を降りて都の衆生に教えを説きます。その行為が、庶民には大変な驚きだったという話は興味深く、皇室と貴族の現世利益や来世祈願から、武士や庶民などの広い階層を対象とする新しいものへと変化する、力強い仏教の新時代を感じます。
江戸時代にはあらゆる人々が仏教徒にさせられ、お寺は葬儀と法事が主要な仕事になり、これが現在も強く残っています。「釈迦」の教えに関するところでは、日本人に長く親しまれている歌‘伊呂波歌’や、「諸行無常」、「諸悪莫作」など、よく耳にする言葉の書かれてある偈(げ)が紹介されました。「経典」では、初め、教えは暗記により保持継承されました。昔の人は強い記憶力を持っていたらしく、当時は文字にすると自分の体から離れていくという考え方をしていたそうです。
「寺院」、「仏像」、「僧」に続いて「仏法と都の人々」では、都の人々がいかに修行者に対して畏敬の念をもち、そして祖師の法を聞き、受け入れ、信仰が広がっていったのか、つまり都の人々が受け入れなかったら地方へは広まらなかったということを話されました。また多くの都びとが仏法を支える仕事をしてきましたが、特に匠たちは、朝廷、貴族、大社寺など一流の審美眼にこたえるための技と感性の向上に一生懸命努力してきました。結果、「○○○はなんちゅうてもみやこや」と言わしめる伝統をつくり、それを大切にしてきました。
とにかく仏法に接する機会等が多く、「いなかの学問よりみやこの昼寝」という諺が通用する程、都は情報が多かったということです。さらに、都の人々にとって仏法がいかに身近であったかの例として、「紫式部日記」の一節や、旅の芸能者(特に女性)により広まった「梁塵秘抄」の歌が披露されました。また、江戸時代には仏書の出版(木版)が盛んになりました。現在も完全に残っている版木は、一枚の吉野桜材板で8ページ分の文字が刻されているということで、「鉄眼版一切経」のお話になりました。鉄眼禅師がまず始めに、京都・木屋町二条に印房を設け版木を作成しましたが、そこに、当時協力し、今も摺り続け書店を営業されているのが‘貝葉書院’さんである等の話は大変興味深く聞きました。
最後に‘現在の仏教’に関するまとめとして、寺院は全国に約75,000寺、京都市内には約1,600寺あるということや宗教法人等についてのお話がありました。
大まかな佛教に関する流れと都の人びとと佛教の関わりについて、藤井会員のこのお話は、つい日頃こまごまと枝葉を追いがちであった求知心に、あらためて幹の部分を再認識することが大事、ということを気付かせて下さり大変有意義でした。
★釈迦ゆかりの地がすらすらと藤井会員の口を衝いて出てまいります!
★ ‘四法印’から三つ 藤井節雄会員が書かれました!
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★冒頭から‘笑い’を誘う福井大筰会員!
私達は常日頃、呉音か漢音かを全く意識せずにお互いに会話したり、本を読んだりしています。福井会員のこの度の呉音、漢音等のお話によって俄然興味を持たれた方も少なくなかったかと思います。
まず、漢字・漢文の成り立ち、次に原日本語は、多くの言語の混合語であるということ、そして無文字の日本が漢字をどう受容したかでは、漢字の日本への伝来時期について正確にはわかっていないが、紀元前から中国や朝鮮半島との深い交流があり、かなり古い時代から‘漢字’を知ってはいたと考えられるそうです。
歴史上の文字史料のところでは、プロジェクター使用で一目瞭然わかり易く、甲骨文字、青銅器に刻字した全文、小篆文字、篆書・隷書・草書・行書・楷書それぞれの特徴、銅鏡に書かれた文字、「漢委奴國王」の金印、「親魏倭王」の金印、「三国志」魏志東夷伝倭人条、七支刀銘文、千字文、「稲荷山古墳鉄剣銘文」、「随書倭国伝」等、が次々に映されそれぞれの解説がありました。
千字文では、そのなかの『鳴鳳在樹 白駒食場』という言葉に説明が及び、その意味は、鳳は自分のとまるに相応しい樹にやってきて鳴くのであるし、白い馬は食むべき場所に来て草を食む。要するに活動すべき場所があれば、人材というべきものは自然に集まってくるということで、このことはまさに今の‘都草’のよう!?である、と福井会員が殊に声を大きく話されました。この場に理事長がおられないのを残念そうになさりながら、先に進み、片カナの成立、漢字からひらかなへの変化等の話をし、日本語は漢字(外来)+ひらがな・カタカナ(自国)の三種類を使い分ける、世界的に複雑な表記システムであるとしました。と同時に柔軟性、寛容性、多様性に富むことが日本語の強みでもあるとのこと。
さて日本における漢字の読み方は、訓読みと音読みでありますが、音読みは大きく分け、①呉音②漢音③唐音(宗音)の三種類に分類されます。①呉音は、三国時代の呉の国で話されていた漢字音で、最初に日本に仏教伝来とともに導入された読音。②漢音は、隋・唐によって中国全土が統一されると、言語も漢音を標準語として強要しました。そこへ日本は遣隋使、遣唐使を送って、中国の国家制度や文化を積極的に採り入れたため漢音読みの必要性が生じました。③唐音(宗音)は禅宗や貿易によって移入された新しい南方音で、特定の物の名前など非常に部分的でありました。
このような経緯のもと、呉音漢音併用という混在する日本語が生まれ、今日に至っているのはどういう理由かは、漢音を日本語の正音に統一すべしという布告まででたのにもかかわらず、当時社会的にも力を持ち最高の知識人である僧侶達が、慣れ親しんだ呉音を捨てることに抵抗し、官府・学者は漢音、、仏教は呉音という並存原則が生じたためということでした。
また、明治以降になって急速に広く広まった漢音は、漢籍、西洋科学や思想を導入する際の訳語(和製漢語)に使われたことが大きかったそうです。呉音は既に日本文化のなかに定着しており、特に勢力が強かった仏教界では、慣れ親しんだ呉音での読み方が根強く残ったと考えられ、仏教用語、諸仏の名前は勿論、寺院の名前も大半が呉音で読むそうで、多数の例が列挙されました。
日常語の読み方では、数の数え方は呉音がそのまま続いていますが、明治以後幅を利かすようになった漢音の方が、呉音より一般化した語が多いそうです。日常生活により深く浸透しているという証拠になるように、同じ漢字がもつ音読みの単語の数も、漢音読みがはるかに多いそうです。
呉音で読み始めたら呉音で統一するのが原則、これは漢音も同様ですが、なかには原則としては誤りとされる読み方が慣用になったものとして、いくつか例を出されていました。このケースでは、京都の方が神社を「じんしゃ」と発音するのを耳にすることがあり、それが強く印象に残るというお話でした。
「似て非なる日本語と中国語」と題してお得意の中国語で閉められましたが、中国語の「手紙」は日本ではトイレットペーパーのことであったり、妙心寺退蔵院でもよく知られている‘瓢鮎図’の「鮎」は鯰のこと、「勉強」は無理やりにさせること、「暗算」は陰謀のことであり、反対に日本の暗算のことを中国では「心算」と書く等々、教えてくださいました。最後まで大変面白く聞かせていただきました。
★パワーポイントに初挑戦 !
★中国語の‘愛人’ 日本語の意味は? 得意な中国語では特に力が入るいつもの福井会員
★お坊さんのキャラクターがとことこトコトコ動いてほほ笑ましい♪
(事務局 小松香織)