第21回都草研究発表会(10.8.28)
★牛若丸の掛け軸(山田 紫光筆)と講演される上野氏
第21回都草研究発表会(10.8.28)
◆日 時:8月28日(土) 午後1時15分~
◆場 所:ひとまち交流館京都 3階
◆講 演:『牛若丸 生誕地と大宮郷』 郷土史研究家 上野 新三郎氏
◆研究発表:『薩摩の歴史に見る京とのかかわり』 発表者 都草会員 櫻井 博
◆参加人数:31名
◆参加費:500円
最初に、約850年前、牛若丸の父源義朝から土地と名字帯刀を得て今日に至り、北区紫竹牛若町にお住まいになる上野新三郎氏より講演がありました。上野家は、源義朝より、この土地に館を建てお百姓をしながらお産を手伝い、子を育てよという命を受け、牛若丸産湯井、胞衣塚を守り続けて852年になるとのこと。牛若丸産湯井の水は枯れずにこんこんと湧いており、約615年前の碑も磨耗することなくはっきり『建碑應永二年(1395)』と判読できる。水面まで垂直の野石が積んであり、今まで崩落したということを全く聞いたことがないとのこと。お金をかけ高度な技術で造ってある、と学者の方からお話があったそうです。すぐ傍には應永元年の石の胞衣塚があるが、おそらく室町時代に牛若ブームがあって造られたのではないかと上野氏。江戸時代には傍らにある牛若丸産湯大弁財天女社が多くの参詣者で賑わった。大宮通を馬が歩いて賑わう様子が判る良くできた版木ということで資料を添付下さいました。また周辺の牛若丸、常盤御前伝説と旧跡に関してに続き、有名な武蔵坊弁慶との対峙については二つの説があるというお話。一つは五条の橋と、もう一つは有栖川(現在の小川)に架かる五常の橋(御所の橋)説、後の説は非常に興味深いものでした。そして洛中と洛外の接点洛北七野については、早くから人々の生活もあり、公家や武家の別邸もでき、女性の野遊びも可能な遊行の地であったとのこと。特に今日は、知名度の低い大宮郷について宣伝したいということで、その歴史的生い立ちについてや、公家の別邸も多く営まれた風光明媚な地であったこと、江戸の初めから幕末までは1600人の人口で殆ど変わらなかったのが、明治維新の激動で大宮御所に仕えていた下級役人や公家さんが大宮郷に移って来られ、明治22年には4000人の人口になった等、述べられました。続いて牛若丸生誕地、旧洛北紫竹上野村における歴史民俗の保存と情報発信ということに関しては、①産湯井、胞衣塚、②常盤腹帯地蔵尊、③今宮(上野)やすらい花、④紫竹地名の由緒 幻の名竹「紫竹」について言及され、印象深いものに、今は光念寺に安置されている常盤腹帯地蔵だが、度々の火災で村人が自らの命を顧みず運び出していて裏が炭化して炭になっているというお話と、6月の梅雨時には赤黒い艶のある素晴らしい竹(紫竹)が村に群生していたということで、産湯井の前に是非紫竹の再生を図りたいというお話がありました。最後にこの①から④については、条件は厳しいが試行錯誤しながら護り徹したい、と力強く語られました。傍らの掛け軸に守られ、胸に漲る思いを熱く講演された上野氏、 まるで牛若丸が乗り移っているかのようにも感じられました。
★いつの日か、皆の為に是非、上野街道沿いに地蔵堂を建てたい!と語る上野氏
………………………………………………………………………………………………………………………………
★最近は非常に鹿児島が近くなったと話される櫻井会員
都草のHPのリンク集から櫻井会員のHPをご覧になって、すっかりファンにおなりの方も多いことと思います。満を持しての登場となりました。導入部では、転勤で様々な場所にお住みになりそれぞれ思い出深く良い所であったというような話をされ、鹿児島は想定外であったそうですが住めば都で大変楽しくお暮らしのご様子。鹿児島検定マスターも取得され、過去最高枚数13枚のレジュメを携えての今回の発表となりました。薩摩の歴史の中で時代時代の代表的な人物にスポットをあて、鹿児島と京都の現地取材を中心にこの二つの地域のかかわりなどを探られたとのこと。まず薩摩の歴史メモとして鎌倉時代、中世、近世と島津氏、薩摩藩について大まかな説明があり、その後時代別、1.平安時代まで 2.戦国時代 3.江戸期 4.幕末 5.近・現代の順にピックアップした人物とかかわりのある場所・事象等を紹介されました。1.平安時代まで:霧島市の和気神社にも狛イノシシが鎮座、薩摩川内市の藤川天神には道真のお墓もあり臥龍梅が見事であることなど、他に大伴家持、俊寛と左遷された人に関するものが多いとの報告。2.戦国時代:兄義弘を凌ぐ崇拝を受けた島津歳久が自害の後、首級が一旦西陣の浄福寺塔頭宝林庵に埋葬されるも、現在鹿児島の大乗寺跡に胴体と共に改葬されるまでの興味深いいきさつ、毎日大酒を飲み、暴れ、無銭飲食を繰り返していたという暮らしぶりまで伝わる秀頼の「薩摩落ち」の伝承など。3.江戸期:島津家の臣東郷重位の創めたものといわれている薩摩藩独特の剣術一派、示現流だが、もとは京都天寧寺の善吉和尚より天真正自顕流を相伝、創意工夫の上、新流派「示現流」を創始、また知覧の武家屋敷庭園は知覧第18代領主、島津久峯と随行した家臣が江戸往復のみちみち、京都の名園に感動し庭園に京文化を取り入れた話など。4.幕末:寺田屋投宿中の坂本龍馬が襲撃され手当ての後、家老小松帯刀、西郷隆盛に温泉療養を勧められ霧島へ向かったという話では、実際に訪ねた小松帯刀邸跡には当時のままの庭が残り、臥龍梅があったという報告。清水寺の月照と西郷隆盛の話では、二人が錦江湾に身を投じるまでの約1週間月照が過ごした旅館「俵屋」跡の紹介。薩摩藩の下級武士は乱暴ものが多く、浄福寺境内の書院の柱には、まるで藩士達の息遣いを感じるような刀傷が残っているとのこと。他に薩摩寺といわれる東福寺即宗院の話等、やはり幕末は薩摩藩の話には事欠かない。5.近・現代:明治末年から大正初年にかけて2代目京都市長西郷菊次郎(隆盛の子)のもとで京都市三大事業が実施されたこと。与謝野鉄幹が2年半鹿児島で暮らしたという話。稲盛和夫氏のこと。面白いところでは餃子の王将と鹿児島王将の関係について。島津製作所の『丸に十の字』の社章の謂れ。鹿児島市の風物詩「木市」の始まりには京都の庭師が関わったこと等。櫻井会員は、鹿児島というところは非常に伝説を大切にしてきて伝承が多く、何かあると直ぐに神になり、信仰になる素朴なところであると話し、全国でも廃仏毀釈が早くに行われ、曹洞宗や真言宗のお寺が多くあったが7年間の間に消滅し、信仰の自由が認められるようになってから出来たお寺には浄土真宗のそれが圧倒的に多い。地元の人々も知らず、地に埋もれていく仏教遺跡が、当時のにおい、雰囲気、面影をよく残していると感慨深く語る櫻井会員でしたが、一方では今残しておかないとならないと、歯痒く万感交到るという思いもあるように感じられました。最後は、鹿児島に旅行される際は必ず連絡を、案内します!との言葉で締め括られました。
★しっかり、かごしまマスター認定証を掛けてます!
★これが“かごしまマスター認定証”です。
(事務局 小松)