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活動内容

第141回研究発表会報告、高橋 正一会員、西野 嘉一監事(25.2.8)

2025.02.12

第141回研究発表会報告、高橋 正一会員、西野 嘉一監事(25.2.8)
 YouTube 期間限定 2月14日(金)から2月20日(木)午後5時まで
    会員のみ限定公開

◆日 時:令和7年2月8日 午後1時10分~午後4時00分

◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表:1.藤原氏の墓所の変遷 ー藤原道長の墓を中心としてー 高橋 正一 会員
      2.「藤原氏の軌跡」その4 西野 嘉一 監事

◆参加人数:ひとまち 23名

第1部は、藤原氏の墓所の変遷 ー藤原道長の墓を中心としてー 高橋 正一 会員 です。

 平安時代に入ると、貴族階級の間では、それまでの土葬から火葬が増えていった。しかし、火葬は財力がないとできないので、庶民の多くは遺体を野晒しにする風葬(鳥葬)にしていた。
平安時代初期、藤原氏の摂関政治を確立した藤原基経は、宇治木幡一帯を一族の墓所(埋骨地)と定め、この体制はその後約250年間続いた。これらの墓所は37ヵ所に及び、明治時代、宮内省により宇治陵として陵墓指定された。

 現在、37ヵ所の墓所のほとんどは被葬者が判らなくなっているが、このうち32号墳は藤原道長の墓ではないかとの古くからの伝承があった。しかし、近年、道長の墓は道長が木幡に建立した浄妙寺の東側にあるのではないか、との説が浮上してきた(32号墳は浄妙寺の南方向[南南東]になる)。
この説の根拠は、近年、浄妙寺跡の発掘調査が進んだことにより、古文書(康平記)の記述と実際の発掘結果が一致していたことに寄るところが大きい。

 しかし、浄妙寺跡の東側のそれらしい場所を3ヶ所試掘してみたが、特に説を裏付ける有力な遺物は出てこなかった。今後の発掘調査が待たれるところである。
 平安貴族は、遺体を穢れたものとして考え(触穢思想)、忌避すべきものとしてきた。葬式はするが墓参の習慣はなかった。寺院の僧侶もほとんど官僧だったので、穢れを避け葬送にはあまりタッチしなかった。
 だが、10世紀末、源信が往生要集を著したことにより、その後、遺体を仏として供養することが重要視されるようになっていった。先祖崇拝することによっても極楽往生できるという浄土思想が広まっていった。道長の臨終などは、この思想に基付いている。

 鎌倉時代に入ると、いわゆる鎌倉六宗と一括して称される当時の新興宗教団などの僧侶達が葬送を担うようになり、葬送の方式など、現在に近い形に定式化していった。そして寺院内に墓が建てられるようになっていった。この頃、5家(当初6家)に別れた藤原摂関家も、木幡一帯から各々、菩提寺とする寺院内に墓を建立するようになっていった。(会員 高橋 正一)

 



第2部は「藤原氏の軌跡」その4 西野 嘉一 監事です。

 道長に退位を要求された三條天皇は、嫡男の敦明親王の立太子を条件に譲位するが、翌年に亡くなってしまう。春宮である敦明の基盤は脆弱となり、結局敦明は春宮を降りることになる。
こうして彰子の子、敦成が即位して第68代・後一条天皇となり、道長は摂政となる。国母は女の彰子であり、天皇の父の一条はすでに亡くなっているという最高の条件のもと、天皇家との結合を完成させる。
道長はすぐに天皇の弟の敦良を春宮に立て、自身は太政大臣となる。そして翌年、後一條天皇を元服させ、三女の威子を入内させて、中宮に立てた。「一家三立后」といわれたこの頃に詠まれたのがあの有名な「この世をば 我が世とぞ思う 望月の 欠けたることも なしと思えば」の歌である。

 この頃より胸病や糖尿病に悩まされていた道長は、1019年に出家し、行観(後に行覚)と名乗って、以後念仏三昧の日々を送るようになるが、1028年、法成寺の九体阿弥陀仏の前で、心疾患に糖尿病を併発して亡くなる。62歳の生涯であった。
道長の後は嫡男の頼通が継ぐことになるが、鎌足以来道長まで、次の世代を継いできたのは嫡男ではなく、常に次子以降の子であった。道長から頼通以後、嫡男へ降ろしてゆくのが増えているが、この頃より摂関家の勢いが衰えてゆくのは皮肉なことである。
子どもに恵まれぬまま、後一條天皇は29歳の若さで亡くなり、同母弟である敦良親王が第69代・後朱雀天皇として28歳で即位する。その後朱雀天皇が37歳で亡くなると、第一皇子の親仁親王が第70代・後冷泉天皇として即位し、頼通は引き続き関白に補される。

 頼通と4歳違いの弟・教通は政権を争い、二人とも後朱雀天皇、次の後冷泉天皇それぞれに女を入内させたが、結局この四人からは天皇の皇子を儲けることが出来ず、頼通、教通共、天皇の外戚の地位を得ることが出来なかった。これによって摂関の勢力が急速に衰え、院政への道が開かれてゆくのである。
結局、藤原氏と外戚関係のない尊仁親王を皇太子に立てざるを得なくなり、政治に飽いていった頼通は、将来頼通の嫡男、師実に譲ることを条件に弟の教通に関白職を譲り、宇治の別業を平等院という寺に改め隠棲する。
頼通の時代とは、王朝国家の支配体制、天皇家と摂関家の関係、太政官の政治体制などに行き詰まりをみせ、これらを変革することに腐心していた時代であった。
宇多天皇以来、170年ぶりに藤原氏を外戚としない後三条天皇が即位した。摂関政治は終焉を迎えることになるのである。

 後三条天皇の後を継いだのは白河天皇。白河は後三条との約束を反故にし、自身の子、善仁親王を立太子し、その日のうちに譲位してしまう。堀川天皇である。わずか8歳であった。
ここで大権を代行する白河院。幼少の天皇の政治を「母方の身内」である摂政が代行する「摂関政治」に代わって、「父方の身内」である院が代行する「院政」という政治体制が始まるのである。この体制が白河、鳥羽、後白河と約100年続くことになる。
しかし武士の台頭によって貴族社会の衰弱していく中世、藤原氏の末裔は新たな支配者に忍び寄ってゆく。鎌倉時代には九条家が鎌倉将軍家へ、室町時代には日野家が足利将軍家へ、江戸時代にも徳川将軍家と姻戚関係を結んでいった。
 天皇家も藤原氏も長い歴史を生き残り、今でも存続しているのである。戦後も旧華族層の閨閥は政界、官界、財界に蜘蛛の巣のように、我々の知らぬところで張り巡らされているのである。明治維新後、「関白」は廃止されましたが、「摂政」は現在の「皇室典範」でも存続しているのである。(監事 西野 嘉一)

                                    (広報部 岸本 幸子)