第139回研究発表会報告、堂園 光子会員、吉野 克行会員(24.11.14)
第139回研究発表会報告、堂園 光子会員、吉野 克行会員(24.11.14)
YouTube 期間限定 11月22日(金)から11月28日(木)午後5時まで
会員のみ限定公開
◆日 時:令和6年11月14日 午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1.「聖武天皇から孝謙・称徳天皇まで」 堂園 光子 会員
2.「日本のシンデレラ【モルガンお雪】の生涯」 吉野 克行 会員
◆参加人数:ひとまち 21名
第1部は、「聖武天皇から孝謙・称徳天皇まで」 堂園 光子 会員 です。
奈良時代、取り分け、聖武天皇の約20年間の天平時代は、日本が中国を手本として律令国家の道を歩み始めた時代で日本国家の基礎をつくった時代でもあります。
天平時代とも言い、文化面でも世界に誇る功績を残しました。
しかし、この時代は自然災害が多く、又、政争渦巻く時代でもありました。
聖武天皇は平城京を後にして東国を彷徨し、新しく山背国に遷都します(恭仁京)。都もまだ出来上がらないのに紫香楽の地に大仏の造営をはじめ、放火による民衆の反発を買います。そして浪速に遷都し、その半年後にまた平城京に戻って来ました。
周囲を振り回した後、娘の阿部親王に譲位しました(孝謙天皇)。
孝謙天皇の時代は、光明子の力をバックにして藤原仲麻呂が実際の力を持っていました。仲麻呂の力で天武天皇の孫、大炊王が即位します(淳仁天皇)
光明子が亡くなると仲麻呂の力も衰え、仲麻呂・淳仁天皇と称徳上皇(孝謙天皇)が対立し、そこへ道鏡などが絡まって権力争いが起こります。
仲麻呂は乱を起こして失敗し殺されます。淳仁天皇も淡路に流されます。孝謙天皇は重祚して称徳天皇となりますが、称徳天皇の死後、道鏡は下野の薬師寺に流されます。
(会員 堂園 光子)
第2部は「日本のシンデレラ【モルガンお雪】の生涯」 吉野 克行 会員です。
私は都草の研究発表会は初デビューでした。
緊急入院となり、一週間ほどの入院でしたが、退院日の翌日が発表日となっており、自分自身焦っておりました。見直しも練習もできないまま本番に臨むことになりました。
「モルガン」と「ユキ」が運命の出会いをしたのが、USスチールが発足した年で、モルガン一族が日の出の勢いの時期でした。モルガンの猛アタックにより、同聚院にこもり結婚の決意を固められました。ちょうど120年前の1月20日に祇園の芸妓『お雪(旧姓加藤ゆき)』が、アメリカの大富豪、モルガン財閥の創始者の甥っ子「ジョージ・デニソン・モルガン」と横浜で結婚した日が『玉の輿の日』となりました。本年の「モルガンお雪」は、62回目の法要が東福寺塔頭の同聚院で行われました。同聚院の岡本弦親住職が境内に「白バラユキさん用の花壇」を増設されたことと62回目の法要されたことを今年の「今も息づくホットニュース」として発表させて頂きました。
フランスの社交界で花開き、モルガンお雪の三回忌には、パリの生花業者135人一行が京都市に訪れました。世界屈指のフランスのバラの名門であるメイアン氏がお雪をしたって開発された白バラ『ユキサン』を奉納されました。毎年、5月・7月・9月・11月に咲く四季咲大輪花と知り、カメラを持って撮影に出掛けました。「モルガンお雪」の六十回忌が同聚院で行われたことを2023年7月20日京都新聞朝刊「地域プラス」に掲載されました。同僚に祇園新橋の女将さんに話を聞かせてもらおうと思う。と話をしました。
全員から会ってももらえないよ。無駄ですよ。と言われ諦めようとしました。しかし、『当たって砕けろ』の精神を思い出し、チャレンジすることにしました。熱意が通じたのか、しかるべき人の紹介があればお話をします。と何度もお聞きしながらポツリポツリとお話を聞くことが出来ました。満足しながら帰ることが出来ました。
また、「モルガンお雪」の年表もなく、書籍も廃版になっているものも多くありましたので、まずお雪の足跡をたどるのが早道と思い、先ずお墓のある同聚院で岡本弦親住職にお話を聞きながら、本堂内を撮影して頂き、そして分骨されているカトリック衣笠教会でもお話を聞くことが出来ました。
「お雪」の奉納された燈籠の場所へとウエスティン都ホテルと須磨の安徳宮へ、次に鳥居を奉納された折上稲荷神社の宮司さんにもお話をお聞きし鳥居への案内して頂きました。そのように調べた内容を『モルガンお雪さんの生涯』として発表させて頂きました。
加藤ユキは、明治14年11月7日に父:平助 (刀剣商)、母:コトの四女として生まれました。明治3年帯刀禁止令で商売が成り立たなくなりました。その後金箔商を始めますが、ユキが生まれる前に商売上の失敗で家が傾き、万寿寺通高倉に引っ越し後にユキはが生まれました。ユキは兄の音次郎は、三条富小路の床屋を開業してお雪を育てました。ユキは14歳で舞妓見習いとなり、芸妓名は雪香となり歌、舞、胡弓の演奏が得意で、評判大変良かった。ジョージ・デニソン・モルガンは、エール大学卒業後に銀行に席を置く、ビリヤードの名手でした。
明治34年新緑の頃に、祇園の外人専用のお茶屋尾野亭で芸妓「お雪」に初めて出会いました。その時には、10歳年上の川上俊介の恋人がいました。その川上俊介とは、明治31年に文部省の役人時に円山公園の平野屋で「お雪」と出会っております。その後京都帝国大学の書記に勤めますが向学心に火がついて入学し、4年後1期生として卒業し、華族の家柄である浪速銀行に就職し、東京支店長まで栄進します。
卒業と同時に金持ちの令嬢と結婚したため、「お雪」は思いもよらぬ裏切りと悲しみに傷心のあまり先祖の墓前で自殺を図ったこともありました。
牧野省三は、日本最初の映画監督で「日本映画の父」と呼ばれた人物であります。祇園の茶屋で夜遊びをしていた時に芸妓だった「お雪」と知り合い、恋心が芽生えてきます。しつこいモルガンの求婚を相談すると、「四万でも五万円でも吹っ掛けてやれ」、その後に「お雪」に失恋した省三は、四万円身請け話を芝居に仕上げ、西陣の「千本座」で上演して大当たりとなりました。「お雪」は、芸達者な姉の「ウタ」に厳しく仕込まれ、胡弓の名手となり都おどりでもその腕を披露しました。
その後も、モルガンの猛烈なアタックにより、「お雪」の菩提樹であります、東福寺塔頭・同聚院に籠って世界三大財閥のモルガン一族に嫁ぐ決意をしました。
明治37年1月20日の横浜領事館で豪華な結婚式を整えた呉服商万足屋は、「お雪」は純白の打ち掛け、『モルガン』は黒羽二重五ツ紋付の羽織着物と仙台平の袴がよく似合ったという。その日が「玉の輿の日」となりました。「モルガン」と「お雪」の結婚式を世界中の新聞に報道される、お雪は「日本のシンデレラ」と呼ばれ、一躍全世界から注目をあびました。
明治39年3月、モルガンお雪の初めての里帰りであったが、馬車の通る沿道ではいつも黒山の人が群がり、モルガンはパリ永住の気持ちを固め、11月29日に2人は神戸港からフランスへ出発しました。
結婚してから11年後に「モルガン」は、スペインのセビリアにて心臓麻痺で客死し、葬儀は10日後パリの英国国教系教会で行われました。
パリの社交界で花開き、「モルガンお雪」の三回忌には、フランス生花業者一行135人が、同聚院に訪れ、世界屈指のバラの名門であるメイアン氏が「お雪」を慕って開発した新種を寄贈された。
その新種の白バラ「ユキサン」は、毎年5月・7月・9月・11月に咲く四季咲き大輪花です。高貴な香りと上品な花弁で強い芳香を漂わせています。岡本ご住職が手入れをされています。「モルガンお雪」の寄贈、奉納、寄付されたものは、灯籠では、現.ウェスティンホテル(佳水園前)と須磨安徳宮にあります。
折上稲荷神社の鳥居には、当時のアメリカの関係悪化により「加藤楼稲吉」として匿名で奉納されています。カトリック衣笠教会の聖堂は「モルガンお雪」の寄付によるものです。ここの衣笠墓苑には分骨されています。「モルガンお雪」は、昭和13年3月にフランスのマルセイユ港から神戸港に到着し、30年振りに帰国しました。
帰国後は、御幸町三条のお雪御殿に約3年、柳馬場錦上に約4年、大徳寺東門近くに18年住んでおり、昭和38年5月18日に風邪から肺炎となり帰天されました。お雪さんの60回忌法要は、令和4年5月13日に同聚院で行われました。お茶屋「かとう」の大女将も参列され、3人の芸舞妓さんもあでやかな舞を奉納されました。その様子を2023年7月20日京都新聞のP18(地域プラス)面にて紹介されました。(会員 吉野 克行)
(広報部 岸本 幸子)