第137回研究発表会報告、吉岡 央会員、奥西 不二会員(24.9.12)
第137回研究発表会報告、吉岡 央会員、奥西 不二会員(24.9.12)
YouTube 期間限定 9月20日(金)から9月26日(木)午後5時まで
会員のみ限定公開
◆日 時:令和6年9月12日 午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1.「~源融と江若鉄道・JR湖西線・琵琶湖汽船~」 吉岡 央 会員
2.「上京の寺々—その多様性—その2」 奥西 不二 会員
◆参加人数:ひとまち 29名
第1部は、「~源融と江若鉄道・JR湖西線・琵琶湖汽船~」 吉岡 央 会員です。
令和6年7月20日は京滋を結んでいる湖西線(山科・近江塩津 74.1km)が開通して丁度50年の日でした。ここでは先ず湖西線の前任者である江若鉄道を紹介し、次に湖西線を紹介します。
文明の利器である鉄道が滋賀県の湖東・湖北地域で開通したのは、明治13年7月に東海道線が京都から大津まで東進したのを皮切りに、北陸線の敦賀・長浜、東海道線の大津・米原、現草津線の草津・三雲、近江鉄道の彦根・愛知川等で明治31年までには現在とほぼ変わらぬ程鉄道が建設された。一方湖西地域では明治中期以降鉄道建設の話題は幾度となくあったが、具体的には進まなかった。大正6年12月、滋賀県知事に森 正隆が着任したが湖西の鉄道未開通を大変心配して、早速地元に出向き鉄道建設の必要性を訴えた。
これに応えたのは延暦寺と沿線住民であり、特に住民は自分たちの生活を切り詰めても、快く資金提供(株式購入)に協力した。そして大正10年3月、江若鉄道は開通(三井寺・叡山 6.0km)して順次鉄路を北に進め昭和6年1月、当面の目標地点であった近江今津(距離 51.0km)まで延ばした。しかし同鉄道は戦後急激に進んだ自動車ブームに押され残念ながら昭和44年11月に廃止された。
湖西線は昭和30年代後半から在来線として、京阪神から北陸への最短快速路線として計画が立てられ工事(7年半)も順調に進み昭和49年7月20日に開通した。具体的には{高架・無踏切・複線電化・緩いカーブ・高速運転(130㎞/h)}の方針で設計され現在は「特急サンダーバード」や「新快速」が軽快に走っている。又同線には日本海側と太平洋側を結ぶ貨物列車が走っており、環境面や運転士(手)賃金効率の圧倒的有利をバックにして物流社会に貢献をしている。沿線には温泉を始め、観光・歴史ポイントも数多くあり東海道線や北陸線とは大分違って電車は琵琶湖湖岸のかなり近い所を走っており、東側は雄大な琵琶湖を西側は緑豊かな比叡・比良・野坂山地の風景が楽しめる。同ポイントの一例をあげると、天智天皇の大津京跡、近江八景の一つである唐崎神社、明智光秀の住まいでもあり水城であった坂本城跡などがあり、「普通電車」に乗車でゆっくりと又価値ある「青春18きっぷ」を利用して、単独であれグループであれ旅を楽しんで下さい。(会員 吉岡 央)
第2部は「上京の寺々—その多様性—その2」 奥西 不二 会員です。
主に上京区ですが、歩き廻っているとお寺の数が他の区より多いのでは?と思いはじめ、上京区の面積と区内のお寺の数を確認すると、お寺の密度が市内で一番でした。
なぜこうなったのか、他の区にはないものが幾つかある。例えば平安宮や現在の京都御所がある。そこでは天皇が暮らしていた。中世、政権は既に武家に移っていたが様々な政略の舞台であった。天皇が在住するから公家たちは邸宅を構える。天皇家に生まれた女性たちは口減らしに門跡寺院に隠れ住んだ。また公家たちは家系を守る為に菩提寺を持ちました。というのが主たる理由でしょうか。
宮殿を造り、飾り物を作り、王家と貴族の衣裳を織る、酒を造る。朝廷に仕えていた寮や司はやがて独立した技術者集団となる。その末裔たちは公家、在京武士、寺社を顧客として家業を続けたのです。貨幣経済の発達とともに蓄えた富で金融業を始めると裏で歴史を動かすほどの存在になる。彼らの救いになったのが日蓮・法華の教えでありました。財はあるものの蔑まれた人々の心を捉えたのが日像でした。やがて洛中皆法華となったのもこの地域からではないかと。日像の最初の後援者は酒屋の柳屋仲興でした。布教のために屋敷を提供したのが妙蓮寺の始まりでした。これはほんの一例です。多くの法華宗徒が集まり団結すると、比叡山延暦寺から弾圧を受けることもありました。信長の焼き討ちにもあっています。また忘れてはならないのは光悦、光琳、狩野派の人々は熱心な法華信者であったことです。
秀吉は圧倒的な武力を背景に寺社を圧し、寄進というアメを与えて、鴨川沿いの御土居の内に寺々を並べ寺町通を造る。その北半分は上京にあります。さらに東西の寺之内通りにも日蓮宗系寺院を集めました。
江戸時代に入ると北野天満宮の門前には参詣人目当てに多くの店が並び、上七軒が生まれました。幕府の庇護を受けた西陣織の業者は堀川と千本通りの間に軒を連ね、機織の音は昼夜途切れることがなかったと言われています。これらで働く人たちは浄福寺や智恵光院など、浄土宗に帰依し檀家となりました。これは寺請制度のよってどこかの寺に属することが定められていたからです。浄土宗は幕府公認の宗派ですから多くの人々の受け皿として建立されていきました。
上京区にはほとんどの宗派の寺院があります。様々な階層の人々が暮らし、それぞれの信仰に合った宗派が集められた、それが多様な寺院の姿を今に残しているということです。 (会員 奥西 不二)
おまけ・・・尺八を吹く奥西会員
(広報部 岸本 幸子)