活動内容

第87回 歴史探訪会東部会 「陽春の一乗寺山麓を行く」(19.3.21)

第87回 歴史探訪会東部会 「陽春の一乗寺山麓を行く」

日  時 平成31年3月21日(木)13:00~
参加人数 61名・うち非会員12名、スタッフ7名
コ ― ス 武田薬品薬用植物園~梅田雲浜旧跡碑~葉山観音~林丘寺宮墓~圓光寺~八大神社~金福寺三宅碑~
     武蔵決闘地碑・大楠公戦陣蹟碑~一乗寺跡~宮内少輔城跡

雨と風の予報に心が沈みながら当日を迎えましたが、予想外の歴探日和となりました。武田薬品薬用植物園を集合場所としたので、バス停から坂道を20分も歩くことになるため、参加者が少ないのではと心配しましたが、多くの方が元気に到着。植物園のご好意で飲み物を頂きながら、暫し休憩(小磯良平画伯の薬草デッサン鑑賞等)した後、園長から武田薬品工業(株)のメセナ活動と園の概略をお聞きしました。

その後、2班に分かれて展示棟や園内を廻りました。薬用植物の上手な説明で知識が深まる(トリカブトの花に異様な関心を持った人がいたとかいなかったとか…)と共に、サンシュユ(山茱萸)の可憐な花や、ツバキ園の様々な品種の花に、心安らぐひと時を過ごしました。

A班坪田解説員
トリカブト
B班・大田解説員
椿・紅唐子

葉山観音堂前に移動しました。無残な土砂崩れで往事の面影はありませんでした。安政の大獄で真っ先に捕縛された梅田雲浜が、境内の小屋に仮住まいをしていた時の旧跡碑が有り、人物像の説明がありました。(烏丸御池にも雲浜邸跡碑がありますが、こんなところにも痕跡があったのですね。)

梅田雲浜について多賀会員
梅田雲浜邸跡碑

また、葉山観音の御堂は残っており、本尊である馬頭観音の解説がありました。観音の中では唯一忿怒の形相をしており、馬が草を食べつくすように、煩悩を食べつくします。農耕民族の信仰です。独特な馬口印の説明もあり、皆さん真似しておられました。

葉山観音について福井会員

近くには林丘寺宮の墓があります。葉山観音の御堂は後水尾天皇の内親王である林丘寺宮が整備したといわれ、林丘寺宮と修学院離宮との関係も詳しく説明がありました。林丘寺の門跡をつとめた二人の女王の墓もありました。

林丘寺宮お墓前にて
大谷副部長

圓光寺の前では、お寺の概要と寺宝(木製活字等)の説明や、南方特別留学生オマール君が広島で被爆しながらも他の被爆者の救護に当たったこと、墓がここに建てられた経緯などを知ることができました。

圓光寺前にて
丹羽副部長

八大神社では、次期宮司から創建は不詳であるが一乗寺地区の産土神であり、八大天王が勧請され祇園八坂神社と御同神をお祀りすることから北天王(北の祇園社)とも称されたこと、京の表鬼門に位置することから方除、厄除、縁結び、学業の神様として崇敬を集めているとの説明がありました。また、下り松は宮本武蔵と吉岡一門との決闘地としても知られ、武蔵が決闘前に参拝したものの「我、神仏を尊んで神仏を恃まず」として鈴緒に掛けた手を放した、と吉岡英治の小説では展開します。(他の説もあります。=下り松の碑参照)

八大神社にて
竹内次期宮司

三宅安兵衛という人を御存知ですか? 若狭小浜生まれ、京都での博多帯販売で財を成し、京都の南部を中心に道標を設置した人物です。と言っても安兵衛さんは当時のお金で1万円残し「公利公益に使え、用途は一任する。」と言って亡くなりました。遺志を継いだ息子清治郎は親孝行にも更に1万円追加し、現在価値にして約1億円で400余基の道標を設置しました。
圓光寺道標や金福寺道標には、『大正14年 三宅安兵衛建之』と刻まれていますが、清治郎の名はどこにもありません。「えらい人やなあ!!」(筆者の感想) 
金福寺の道標には四面に境内の案内や俳句などが刻まれています。碑の裏側を見ることは難しいです。そこで、東部会の隠し球、模型の出番です。角柱を再現し、四面全てを紹介しました。

金福寺道標前で武富部長
隠し球の模型(道標の裏側)

一乗寺下り松では、2つの石碑を紹介しました。1つは御存知 宮本武蔵の決闘地の碑です。碑文には大正十辛酉年堀翁女建之とあり、剣術師範堀正平が妻の供養として建碑しました。
「慶長9年、宮本武蔵は吉岡一門とこの場所で決闘をしたとされる。数十人が兵仗を携え待ち受けるも、武蔵、又七郎を切り、徒党を退け、悠然と洛陽に帰る。」
しかし、吉岡一門との決闘場は他所(北野七本松)にもあり、その立て札も見られます。興味のある方は行って見てください。
吉川英治が下見に来た時、一条下り松、と言うところを、一乗寺下り松、と言ったため違うところに連れてこられ、ここがその舞台になったという説もあります。
洛陽に帰ったあと、吉岡一門の追撃を恐れ、しばらく観智院(東寺)に身を隠したと言われています。

一乗寺下り松にて田村会員

もう1つの石碑は楠正成(大楠公)戦陣蹟碑です。建武三年、足利尊氏軍に勝利した正成の陣がこの地にあったことを示しています。
昭和20年5月の建碑。その3か月後に終戦。その3か月後に副碑を傍らに建てています。「足利尊氏は八十万の兵を率いて来寇す。楠木正成は三千余騎にて下松に陣し、賊徒を西海に退けた。かかる楠公精神こそ、産業日本の指針たるべく、平和日本の標幟たるべし。」と、言い訳的な説明をしています。戦後、進駐軍に対し、いかに気を遣っていたかの証左として、貴重な記録と言えます。(80万などの数字は太平記に出てきます。)

大楠公戦陣蹟碑

最後に、今回散策した一乗寺の地名の由来となる一乗寺跡の石碑の前で、一乗寺の歴史や建碑の経緯について詳しい説明がありました。一乗寺は平安時代中期、上東門院(一条天皇の中宮彰子)が園城寺(三井寺)の別院として建立しました。

一乗寺について武富部長
一乗寺跡石碑

また、一乗寺村の土豪・渡辺氏の歴史について解説がありました。渡辺晶(宮内少輔)は白鳥越えという交通の要衝に城を構え、平時は一乗寺の小高く石垣と堀に囲まれた屋敷(宮内少輔城)に住んでいました。足利義昭側に付いたため織田信長に敗れますが、息子糺は大坂夏の陣で奮戦します。渡辺晶の妻は淀殿の側近で、明智光秀の娘とも言われています。
宮内少輔城址前まで行き、定刻に本日の歴史探訪会は終了しました。

渡辺家について植山会員
渡辺家

                        報告:東部会副部長 丹羽氏昭

(写真:熊谷喜輝)
(広報部:熊谷喜輝)

 

活動内容
このページの先頭へ戻る

Copyright © MIYAKOGUSA All Rights Reserved.