活動内容

第65回研究発表会・報告 堀川 泰伝会員、菊井 俊彦会員(14.10.23)

 第65回研究発表会・報告 堀川 泰伝会員、菊井 俊彦会員(14.10.23)

◆日 時:平成26年10月23日午後1時10分~午後4時00分
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1.上京焼き討ちの謎 堀川 泰伝 会員
       2.松原通を歩く―堀川通から清水寺まで― 菊井 俊彦 会員
◆参加人数:41名
◆参加費 :300円   一般参加費 :500円
 
 第1部は郷土史家の堀川 泰伝 会員より「信長の三大火業 上京焼き討ちの謎」です。信長についての今回のテーマーは名古屋で雑誌の16回のコラムに記載された中の1つをお話していただきました。
三大火業とは比叡山延暦寺の焼き討ち、長島一向一揆殲滅そして上京焼き討ちです。しかし上京焼き討ちは過小に扱われています。何故、歴史上過小評価されたのでしょう。それが謎です。
 

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専門学校卒業生が描いた織田信長のイメージ

 
 信長が義昭を奉じ上洛したのが永禄12年(1568)、比叡山延暦寺の焼き討ちの3年前でした。翌年には義昭の新邸二条第の造営に着手。このあたりまでは義昭との関係はよかった。しかし正親町天皇が信長に与えた副将軍を信長が拒否したあたりから、義昭との関係は悪化してきました。
元亀元年(1570)には義昭に条書を送り、行動を制限させる。越前敦賀に侵攻するも浅井長政の謀反を知り帰京。六角氏討伐のため柴田勝家・佐久間信盛を派遣。姉川にて浅井・朝倉連合軍と戦う。石山本願寺挙兵。浅井・朝倉連合軍これに呼応する。六角氏と和す。長島一向一揆が、尾張小木江城を攻め落とす。
そして最終的には正親町天皇の勅命で浅井・朝倉両氏と講和。元亀3年には義昭に一七条の意見書をつき付ける。武田信玄遠州に出陣。徳川家康救援を求める。武田信玄三方ヶ原にて徳川・織田連合軍を破る(三方ヶ原の戦い)などいろんな事が次々に起こる中、的確に処理していく信長の能力は凄いものがあります。
 

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 天正元年(1573)、義昭、朝倉・浅井・本願寺・武田による信長包囲網を密かに画策するも細川藤考これを信長に知らせる。信長和平を求めるも義昭これを断つ。信長上京し二条第を取り囲む。これが上京焼き討ちなんですが、このことを知る人が少ないのは何故か。
宣教師フロイスが記したところによれば、洛中、洛外の放火は箇所は60ヶ所に及び上京全域も翌日すべて灰塵に帰したとあるが、『信長公記』には「上京を御放火候」と簡単な記述しかなかったこともあって余り知られていません。
私は筆者の太田牛一が意図を持って過小評価に書いたと思い、焼き討ちがあった地理・地名が詳細に報告されているフロイスの書簡の方を信頼してます。一般的に上京焼き討ちの評価が低いのは、一つの軍事行動ではなく義昭に対する状況や流れのなかで偶発的に起こった事故ではないか。また上京町衆のおごりがあり譲らなかった為ではないか、等です。
 

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 つぎに上京焼き討ちのターゲットはいったい誰なのか?義昭、町衆、それとも正親町天皇の3つに絞って考えました。誰が誰を脅したのか。結論から言うと正親町天皇です。義昭は武田信玄を頼りに、三好、浅井、朝倉、本願寺と謀り、再び信長を討たんとする第二次信長包囲網です。
信長にとって義昭は敵ではないが、信玄が動き出したことは厳しい状況です。信長は朝廷を京都において孤立無援にするために焼き討ちを決断したのである。町衆は名物狩りによって信長を恨み、信長も町衆に対し強い態度にでたと云われていますがこれには納得できません。上京を焼いたのは内裏を丸裸にしたかったからです。
(記事 岸本 幸子)
 

 
 第2部は松原通を歩く~堀川から清水寺まで~ 菊井 俊彦 会員の発表です。
1200年続いている京都の歴史・文化を「京都の道」という切り口から、思い出や記憶からも掘り起こそうと調査を続けておられる菊井さん。今回で6回目のご発表になります。
これまで、今出川通と北野、三条通と旧東海道、千本通と長坂越、京都の小さな道1とその2、いずれもデスクワーク、フィールドワーク、そして聞き取り調査を通して得た成果を、研究発表会の場で報告下さっています。
 

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山本 喜康会員画 キクゾー

 
 さて、今回は松原通。
堀川から清水寺までの地図上に史跡や見所を落とし込み、山本喜康会員の解説がつき、この日の為に作って下さった松原通の地図はさながらマニアの史跡ガイドブックのよう。
とくに祠だけの小さな神社が目立ちます。
神社の由来、どこの町が管理されているのか、祭司にはどちらの神社がなさっておられるのか・・・など、菊井会員ならではの調査成果が次々と報告されました。
 

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過去のご報告でも触れられた「祇園床」は、祇園祭山鉾巡行の際の会所風景の貴重な写真も披露して頂きました。また松原通が八坂神社と稲荷神社の氏子圏の境界となっている事も興味深いところです。
 
松原通が旧五条通であったことはよく知られたことですが、森幸安が応仁の乱後の状況を描いたとされる「中昔京師地図」の松原通には通り名の由来となった松林が描かれています。そして、松原通より南に町並は描かれていません。
 

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洛中絵図や清水寺の境内図をみても、音羽の滝の奥に「渋谷道」が描かれていることからもわかりますが、松原通が清水寺、清閑寺、渋谷越を経て、近江や東国へ向うための大切な道であったことは間違いないようです。
 
戦国期の下京の南の端が松原通なら、東の端に当たるのが東洞院通。
次回は東洞院通についての報告が出来ればと思っています。
(記事 松枝 しげ美)
 
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