活動内容

第40回研究発表会(12.6.28)

 第40回研究発表会(12.6.28)

◆日 時:平成24年6月28日午後1時15分~午後4時
◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階
◆研究発表:1.『高台寺の建立過程について』都草会員 齋藤範枝
       2.『雑学祇園祭Ⅰ 山鉾巡行史から、あれや、これや』理事 芦田喜雄
◆参加人数:61名
◆参加費 :300円   一般参加費 :500円
 
 第1部は研究発表初参加の齋藤範枝さんです。テーマーは「高台寺の建立目的及びその存続に関する一考察」~豊臣秀吉没後の北政所を視点に~ついてです。目次に沿った明解な資料と共に22に及ぶ参考文献よりまとめ挙げた知識を一気に発表して頂きました。
 現代の京都の景観・文化の基礎は応仁の乱で荒廃した町を復興した豊臣秀吉の時代とされており、その桃山時代は京都の歴史の中でも繁栄し京都らしい文化を残している。そして高台寺は秀吉の遺構がまとまって残存している貴重な存在です。北政所の意向で建立されたとされる高台寺は、近年の研究では諸説あります。
 

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それは高台寺が秀吉の菩提を弔うために建立したのか否か。また何時から秀吉の菩提を弔う様になったのか?参考文献として「舜旧記」「時慶記」を中心に他、江戸時代から近代の地誌を併せて総合的に検証しました。先行研究として、田端康子氏及び圓徳院住職の後藤典生氏は、高台寺が秀吉の菩提を弔うために建立。津田三郎氏は高台寺が秀吉の菩提を弔うために建立した寺院では無いと指摘し、意見が分かれています。
 研究として本当のところはどうなのかを資料を通して明らかにすることを目的としました。14歳で藤吉郎と婚姻したねねは、恋愛結婚で当時としては大変珍しいことでした。晩年は徳川家康の援助で高台寺を建立し、19年間過ごしました。秀吉は「死後は自ら神として祀るように」という遺言を残しています。秀吉は朝廷より正一位「豊国大明神」の神号を賜り1599年に名実とともに神となりました。
 

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 豊国社創建に参画した梵舜が日記を多く残していたので参考しています。秀吉の遺言によると秀吉の死後、北政所は伏見城に住むことになっていましたが伏見城ではなく秀吉の菩提に近い京都新城に移りました。その2日後には北政所がいた大阪城西の丸に家康が移り住んでいるので事前の了解があったと思われます。新城屋敷に移りすんだ北政所は月参り以外にも頻繁に豊国社に通っていました。
関ヶ原の戦いの時、北政所が東軍に加担してくれた恩義もあり、家康は後に高台寺を創建する際に、援助を行い優遇しました。北政所は後陽成天皇に「高台院」の院号を賜りそのまま寺名としたのが高台寺です。北政所は豊国社に社参し秀吉の菩提を弔い、高台寺では生母朝日や実家木下家の菩提を弔うことを日課としました。
 

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 高台寺の創建にあたって家康は北政所が望むままに惜しげも無く伏見城の遺構を移築しています。この時点では秀吉の菩提を弔う場所は豊国社でした。しかし鐘銘事件より大坂冬の陣、夏の陣を経て豊臣家が滅亡。直後家康は豊国社を破却においやり北政所や梵舜は豊国社や山上の廟堂に参詣ができなくなりました。北政所は慶長20年(1615)2月1日を最後に社参していないことが「舜旧記」から見てとれることができます。
秀吉の菩提を弔う場所が無くなった北政所は新たに菩提を弔う場所を考えたのではないでしょうか。新たな場所を建立するのは家康の許可がいるため、自らの実母や養父母ために建立した高台寺に秀吉の菩提をも弔いその霊を慰める事を考えたのではないでしょうか。
 江戸時代から大正時代にかけての地誌から見る高台寺もあり、確信ある研究発表をありがとうございました。
 

 第2部は山鉾町のそばで生まれ育った芦田喜雄理事より「祇園祭のトリヴェア」のお話です。トリヴェアとはラテン語の三叉路で、ありふれたところ・ありきたり・雑学という意味です。祇園祭りは7月1日から31日まであります。吉符入から夏越祭まで、そして主役は山で鉾は露払いです。鉾で厄を落し三基の神輿が出ます。子供の頃の思い出は、母親が常に傘を持っていたことです。雨傘・日傘そして鉾から投げられる粽をキャッチしていました。
 今年の祇園祭のスポットは大船鉾の復活、142年ぶりに「唐櫃巡行」します。神功皇后の狩衣も新調しました。八幡山のつがいの鳩や月鉾の胴掛も新調されました。休み山の一つ、布袋山の骨組みに当たる櫓が完成しました。
 

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 山鉾が今の形になったのは14世紀の中頃からです。応仁の乱以前の資料が少ないです。その頃は先の祭り31基と後の祭り27基で合計58基ありました。鉾をほくと呼んでいたことが特徴です。応仁の乱後から20年間は巡行がありませんでした。1500年にくじ取りが行われるまでは巡行の順番は速い者勝ちでした。
 宝永の大火・天明の大火・元治の大火(禁門の変)では多くの山鉾が罹災しています。後の祭りと先の祭りで車の貸し借りがありました。過去には2回の死亡事故があります。明治10年より新暦の7月17日、24日を恒久的に祭日と決定しました。明治12年から30年までコレラが流行り延期や繰上げがありました。
明治32年よりくじ取り式が市役所で施行されるようになりました。明治維新までは六角堂で維新以降は京都府庁で施行されていました。昭和26年には月鉾建てで横転事故がありました。進駐軍が女性を乗せたためと言われました。昭和58年には粽を鉾の上から投げるのを禁止しています。平成21年には京都祇園祭の山鉾行事が世界無形文化遺産に登録されました。
 
 

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 火事で焼失している時の特徴を言えば、応仁の乱では山鉾がサイズも小さく、簡素だったために再興が容易に出来ました。宝永の大火では後の祭りの山鉾が焼失しました。天明の大火では先の祭りの山鉾が焼失しました。禁門の変では火のまわりが遅く持ち出しが可能でした。重い物以外は焼失せずに済みました。宵山はいつからはじまったのか?天明の大火以降に提灯に灯りが入りはじまりだしました。
 1919年に放下鉾が提灯を初めて電灯で点灯しました。32基の駒形提灯のコードの長さをタスと3kmあります。元格致小学校に集めて下京・中京消防署と関西電力とで毎年コードの点検をしています。
 

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 人形の稚児は明治天皇の后昭憲皇太后の実兄一条実良が、病気で出来なくなった時に代わりに作ったのが始まりです。函谷鉾の人形稚児が始まりで一条実良が人形のモデルになっています。長刀鉾以外では、放下鉾が最も永く昭和4年まで生き稚児を乗せていました。長刀鉾がどのようにして稚児を決定していたかというと稚児家と大蔵流の狂言師武藤さんと町内の世話役の伊藤さんの3名でお稚児さんを決めていました。
現在は長刀鉾保存会の理事会で決定されています。昔は50年に1回稚児役が順番に回ってきていました。鉾を動かすのに多くの人が必要ですがドライバーは一人です。手伝方が音頭取ります。扇子を垂直に差し出す城下と水平に差し出す六条の手伝に分かれます。大工方が屋根の上に乗ります。屋根の上に乗る方は鳥と呼ばれます。車方が車を動かします。
 音頭取りのパフォーマンスも披露して頂き普段目が行き届いていない様なところの説明が多く今年の祇園祭りは益々楽しいものになりそうです。ありがとうございました。
 
(事務局 岸本幸子)
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