活動内容

第31回研究発表会(11.8.23)

 31回研究発表会(11.8.23

 ◆日 時:平成23823日(火) 午後110分~午後4

場 所:ひとまち交流館 京都 3

研究発表:1.御霊になった能書家 橘逸勢』   都草会員 横井 剛 
         2.『天皇と日本の歴史 神々の略系譜 』 都草理事 今井 敏昭

参加人数:39

参加費 :300   一般参加費 :500

 


  第一部発表の日本文化を研究されている横井さんは静岡県より来て頂きました。年6回程は京都の方にもお見えになるようです。横井さんのお住まいになる静岡県浜松市には、承和の変で犯人の一人と目され、伊豆国流罪の途中、遠江国板築駅で没した「橘逸勢」を祀った神社があります。
 地元ゆかりの人物ということと、能書家として名前は知られていますが、実像がほとんど知られていないことに興味を持ち研究を始められたとのことです。
 「橘逸勢」の研究を始めてから袋井市上山梨地区も橘逸勢の墓とされる「供養塔」が存在することを発見されたようです。 

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研究対象として6つの項目に分けての解りやすい内容でした。まずは、歴史上の人物としての橘逸勢の紹介がありました。その中で空海が代筆した帰国請願書を現代文に直した資料を読み上げて頂きました。それによると唐語が話せなかったことが確認できます。唐語が話せないため、琴・書を修めたようです。遣唐留学生として二十年の予定を繰り上げ、一年余りで帰国した橘逸勢の性格は「細かいことにこだわらない奔放な性格」とあります。そして今回の話のメインとしては、能書家として「三筆」となった由来についてと言うことでした。
 多くの資料とノートパソコン持参で来ていただき、とても詳しく説明して頂きました。「三筆」とは江戸時代に貝原益軒が「和漢名数」で編集したのが最初とされています。何故、江戸時代になって「三筆」の呼称が生まれたのかに疑問を持ち、研究がはじまりました。
 静岡県書道家連盟の有名な方に尋ねられたところ、中国書道を研究しないといけないとアドバイスがありました。そして調べたところ、橘逸勢と空海が唐に行っていたころの中唐の能書家「顔真卿」の影響がみられたようです。また、顔真卿の後継者である「柳公権」の存在も興味深いです。

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和漢名数」以前か橘逸勢筆と鑑定される作品は「伊都内親王願文」のみです。鑑定者は書道賀茂流の祖「藤木敦直」です。「願文」の全文も見せて頂き解説をしていただきました。願文は本来端正に書きますが橘逸勢の性格が出ていて、自由奔放に草書・行書を取り入れているとのことです。また「俯仰法」の筆の運びの説明もありとても興味い解説でした。和漢名数は京都で創られていますので、おそらく京都で「三筆」という表現が使われていたと思います。京都書道と藤木敦直の賀茂流をより一層研究を進めてこの説を強めていきたいとのことでした。

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承和の変における謀反の罪で伊豆国への流罪に処せられ、流罪の途中、遠江国板築駅で死去し、8年間葬られたとされます。
 遠州国にあった遺骨を本郷へ埋葬を許され、娘が持って帰り「姉小路堀川東」の自宅に埋葬したと云う話も残っています。また霊神社として「姉小路猪熊」にあったことも確認されています。
 本来ならば御霊研究も入れたかったとのことでした。しかし御霊研究は研究すればするほど泥沼にはまったような形になってしまったようです。御霊については皆さんの意見を聞いて今後の研究の参考にし次回の発表に繋げたいとのことでした。ありがとうございました。

 



 第二部は歴代天皇のことは、全て頭の中に入っている今井 敏昭理事です。
今回のテーマは天皇と日本の歴史「神々の略系譜」です。神様とはいったい何か?というところから始まりました。
 どのような物が神になったのか?その神様が時間と共にどのように変遷していったのか?その推移を見ていきたい。という内容のものです。神秘の世界を理論立てて、お話して頂きました。
 石器・縄文時代の神はどのような姿だったのでしょう。弥生時代には神様は増え定着していったようです。最初の神は火の神・川の神・風の神など自然神です。その中に民衆神話や地方神が発生してきます。そこから産土神や氏神が出てきます。

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そして紀元前300年から1000年間に渡来人がやってまいります。神仏習合と云うのはインド・中国・韓国の道教・仏教・儒教が日本の人達に、いろんな影響を与えたものだと思います。
 外来信仰の神が日本において和風化していきます。3世紀には大和地方に豪族ができ、4世紀には崇神天皇が近畿を統一する。そして7世紀には
記紀神話として「古事記」・「日本書紀」が残されていまが、これは天皇神話で、記録の初期の時代以前は、民衆・豪族神話です。
 このあたりで大きく神様の見方が変わったのではないか、という事でした。672年の壬申の乱で初めて日本と天皇と言うことばがでてきました。そして天武天皇は現人神と呼ばれた。
これは政治的神話で天皇に都合の良い話になっていった。
 古事記には天皇に都合の良いことが書かれています。日本書紀には虚構と変更と史実が書かれているので読み解くのが大変です。

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戴いた資料で中の天つ神と国つ神が書かれた「神々の略系譜」を見ると、神様を先祖に持つ神武天皇がいらっしゃいます。BC660年に即位した神武天皇からが人の世の編でそれ以前は神様です。お米があるか無いか分からない時代に本当に神武天皇はいたのでしょうか?いたとすれば奈良にいらっしゃたようです。1代から9代の天皇が奈良の西部にいた。このころ奈良東部には卑弥呼が居たと思われます。10代天皇の崇神天皇が4世紀に地域統一した以前は、何が本当か嘘かが分からない話です。これ以降は天皇の歴史という流れに入りますが、本日は神武天皇までの流れをまとめた「神々の略系譜」を中心に天つ神と国つ神の話へとなりました。
 国つ神の中心人物は大国主神です。記紀神話の中に登場する神は自然神も多く含まれています。天つ神も国つ神も含まれています。しかしどちらなのか分からない神もいます。
 全国66ヶ国と2つの島の68ヶ所に一の宮があります。国司が赴任した時に一番最初にご挨拶に行く位の高いお宮を一の宮といいます。68の一の宮の内の4割が国つ神になっている。
 負け組の国つ神がその国の一番大事な神社の祭神に祀られている。これは日本人の良さで、今まで祀られていた神を大事にしています。全てが天つ神で無いところに驚いたとのことです。

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 多くの神様がいますが整理したのが「天地地祇の変遷」です。その中で、持統天皇と明治天皇以外は天つ神の伊勢神宮に行っていなかったという話もありました。国つ神の代表が出雲大社です。伊勢と出雲は同じような時期に造営・修理などの話が出てきています。表の伊勢・裏の出雲、日の出る伊勢・日の沈む出雲というような表裏一体の関係で扱われていたようです。
 両社とも地方神の時期にはじまり国家神の時期にはっきりした形で記録がされています。これは神様の歴史と天皇の歴史が一致しているということです。
 8・9世紀になると神様の系図が優遇されていた。神様の子孫であるという事を信じて時代が動いていた。また時代の流れのなかで国つ神が天つ神に変わった例もあります。平安時代までは神様は大事にされ、人間の祖先としての扱いも受けた。鎌倉時代は、権力は無くなりますがお金は残してもらえたので文化保護の地位は保てました。室町時代は足利将軍が頼りないので財力も消失します。
 そうなると先祖の墓も分からなくなる。と同時に神様もどこに行ったか分からなくなる。室町時代から現在の旅行エージェンシーの様な営業がはじまった。積極的に出て行った。
 江戸時代になるとお蔭参り・武家参りなどになっていった。この時代になると地方神・国家神ではなく庶民信仰になってしまいました。明治時代には天照大神が一番。とつづきました。
 神様の話には終わりはないようです。

 

(事務局 岸本幸子)

 

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