活動内容

第218回美化活動~本法寺~(R05.04.05) 

第218回美化活動~本法寺~(R05.04.05) 

 

日時:令和5年4月5日(水)午前10時~

場所:京都市上京区小川通寺之内上ル本法寺前町617

参加人数:38名

 

今回は日蓮宗の本山(由緒寺院)であり本阿弥家の菩提寺にもなった本法寺にて美化活動を実施しました。本堂横の桜は散り始めて葉桜になりつつありました。

 

本法寺は室町時代に活躍した日蓮宗僧侶、久遠成院日親上人(1407-88)によって築かれた日蓮宗の本山です。開創の時期や場所については、永享八年(1436)に東洞院綾小路で造られた「弘通所」が始まりとされています。数度の破却に遭った後、本法寺は隆盛し多くの僧侶たちが棲むところとなり繁栄しましたが、天文五年(1536)の法難によって一時は都を追われ、大坂堺に避難する事となりました。後に一条戻橋付近で再興し、さらに天正十五年(1587)、豊臣秀吉の聚楽第建設に伴う都市整備の影響で、堀川寺之内へ移転して今日に至っています。

 現在地に移転したときの貫首日通上人は、外護者であった本阿弥光二・光悦親子の支援を受けて堂塔伽藍を整備し、本法寺は京都の町に一大栄華を誇るまでに及びました。しかし、天明八年(1788)に襲った大火は本法寺の伽藍をのみ込み、経蔵と宝蔵を残すだけとなりました。その後、檀信徒達の堂塔再建に対する願いは着々と結実され、本堂・開山堂・多宝塔・書院・仁王門などが整備され、今の本法寺となりました。

本阿弥家や有名な巴の庭について。本阿弥家は元来、刀剣の鑑定や研磨を生業とする家柄で、足利幕府に仕えていました。光悦の曾祖父である本阿弥本光(清信)が、刀剣の鞘走が原因で足利幕府六代将軍義教の怒りに触れ、投獄された際に獄中で日親上人と出会い、教化されて熱心な法華信者になります。

 爾来、本阿弥家は本法寺を菩提寺として支え、豊臣秀吉の命によって現在地へ移転を強いられた際に、光悦は父親の光二と私財を投じ、伽藍の整備に力を尽くしました。また、これにあわせて光悦によって造られたとされる「巴の庭」は、室町時代の書院風枯山水の影響と安土桃山時代の芽生えを感じる名庭です。昭和47年に修復され、昭和61年に国指定名勝となりました。

長谷川等伯(1539-1610)も本法寺に縁の深い芸術家として知られています。

60代になると大作を次々と手がけ、そのひとつに本法寺の『佛涅槃図』(重文)があります。この作品は京都三大涅槃図のひとつに数えられ、描表具を含めると縦10m・横6mにも及ぶ大幅で、表具の裏には日蓮聖人以下の諸師や本法寺歴代住職、祖父母・養父母・子息久蔵などの供養銘が記されています。画面の中で嘆き悲しむ弟子や動物たちが描かれ、自分をのこして先立った人々への哀悼と供養の想いが伝わってきます。また、自身と縁の深い本法寺関係者の肖像画『日通上人像』(重文)・『妙法尼像』(重文)などをのこし、高い評価をうけています。

美化作業は紫陽花や山吹などの下にたまった落葉の掻き出しや山吹に絡まっているツタの除去、駐車場の雑草刈りでした。隠れる様にかなりの落ち葉が堆積しており、なかなか骨の折れる作業でした。

駐車場の雑草刈作業
鐘楼周りの清掃
集めた落ち葉
山吹 紫陽花の下清掃作業
溝に溜まった落ち葉掃除

 

作業終了後は、巴の庭にて貫主さまより、お庭の話や本法寺と本阿弥家や長谷川等伯との関係などを分かりやすく説明していただきました。

巴の庭にてお話

(次回美化活動のお知らせ)令和5年4月18日(火)午前10時から毘沙門堂(山科)で美化活動を行います。なお、雨天の場合(降水確率70%以上)は翌々日4月20日(木)に延期となります(翌々日なので注意して下さい)。多くの方の参加をお待ちしております。

                  報告者、写真撮影 鍋谷 豊
                   (広報部 松井 浩治)

活動内容
このページの先頭へ戻る

Copyright © MIYAKOGUSA All Rights Reserved.