活動内容

第101回歴史探訪会 東部会「植物園・一世紀の軌跡(奇跡)」(2022.11.29)

第101回歴史探訪会 東部会「植物園・一世紀の軌跡(奇跡)」(2022.11.29)

 

日 時  令和4年11月29日(火)13:00~  

天 候  雨

集合場所 京都府立植物園正門内側

参加費  500円

参加人数 22名 スタッフ・事務所7名

 

京都府立植物園も来年でちょうど100年、まさに一世紀です。我々の歴史探訪会も101回目となり、新しいスタートとしてこの植物園を選びました。

植物園の歴史は平坦ではありません、皆様の知恵と努力で越えられた奇跡です。その軌跡を追ってみましょう。

天気予報は雨天で強風とのことで、担当者一同心を痛めていました。前日からスタッフラインメールの忙しかったこと。当日は冷たい雨が徐々に強まる中、植物園入口で参加者を待ちました。欠席の連絡も次々入っています。

 

雨の中の受付風景

急遽、植物園会館での肉戸裕行副園長の講演を前倒しにしていただきました。
テーマは「京都由来の植物」。最初はミヤコグサ(都草)の花のお話から始まりました。現在京都市内ではほとんど見られなくなったそうです。その他、キクタニギク、キブネギクなど懐かしい名前の花がたくさん紹介されました。
 

京都由来の植物について講演していただいた肉戸裕行副園長
肉戸裕行副園長による講演

約40分の熱い講演が終わった頃、雨も小やみになりました。この機会を逃してなるものか、と入口に戻り、探訪をスタートしました。

ケヤキ並木
正門までの並木は当初「アメリカキササゲ」で、2代目は「シリブカガシ」でした。しかし、大きくなると双方とも枝が暴れ樹形が整いにくく、暗くなることから3代目が探されました。

下鴨の三井別邸のケヤキ林に生えていた実生の若木を昭和10年に譲り受け、園の苗床で2年間育て、植栽されたものが現在の並木です。夏には青葉で影を作り、秋には紅葉、冬は日差しを地面に届けます。現在の並木も多くの丹精の結果であります。

開園の経緯
大正天皇の御大典を記念する行事として、京都府は京都博覧会を催す予定で土地を購入しましたが、資金(府債)が予定通りできず計画は頓挫しました。しかし三井家から25万円(現7億5千万円)という多額の資金援助の申し出があり、当時の大森鍾一知事は府会にはかって、この土地に植物園を開設することにしました。

ところが第一次世界大戦の影響で物価が高騰したため、三井家からさらに30万円(現9億円)を寄附してもらい、ようやく大正12年11月10日「大典記念京都植物園」が開園しました。

開園記念碑
開園記念碑は時計をはめて青木万蔵氏が寄贈されたものです。次のような明治天皇のお歌が刻してあります。「時はかる 器は前に ありながら たゆみがちなり 人の心は」

今は時計がなくなっていますが、開園の記念として伝えられています。
 

開園記念碑の前で説明する田村光弘会員

大典記念京都植物園設立記念碑
昭和3年、昭和天皇の即位の大礼が行われる時に、大森知事と三井家の功績を残すため、この植物園設立の経緯を記した碑が建てられました。
 

大典記念京都植物園設立記念碑

温 室
昭和5年、現在の温室のところに「昭和記念館」が建てられました。しかし、米軍接収中にクラブバーとして使用され、火災により焼失してしまいました。

初代温室は植物園の南東の位置にありましたが、戦争中に取り壊されていました。植物園が米軍から返還された後、昭和記念館の跡地に2代目・3代目の温室が建設され、現在に至っています。
 

温室
温室

平成21年に天皇皇后両陛下(現上皇上皇后)が行幸啓された時、3代目の温室の「ああそうかい(亜阿相界)」という植物の名前に盛り上がったということです。

 

天皇皇后両陛下(現上皇上皇后)行幸啓記念碑
小雨降る中、傘を差しながら熱心に説明を聞く参加者

《カイヅカイブキ》
開園時から各所に植栽され、樹齢130年になります。大きなものは高さ8mにもなり、高所作業車で剪定されています。剪定をしないと樹は炎のように渦まく性質があります。北山門近くに剪定されていない樹があるので、見比べてください。
 

カイヅカイブキ(剪定後)
カイヅカイブキ(剪定していない)

《枝垂れ槐(えんじゅ)》
2代目園長が昭和9年、中国から穂木を持ち帰りました。延寿に繋がるとして、中国ではめでたい木とされています。枝振りも特徴的で、くねくねした様子は龍を思わせます。

初代と2代目の園長は世界中から珍しい植物を積極的に導入し、品種数1万2千種を誇る現在の基礎を作りました。その意味からも記念樹的な存在です。
 

枝垂れ槐(えんじゅ)

比叡山のビューポイント
大芝生地西側と、植物園会館の二階からの比叡山の眺めは、さえぎる建造物がなく、植物園の緑と調和したビューポイントになっています。雨に煙って見えないのではないかと心配していましたが、小やみになって外を見ると、雨が空気中の塵を流してくれて、くっきりと比叡山の美しい姿が… 東部の祈りが天に通じたのかもしれません。
 

植物園会館二階から望む比叡山

クスノキ並木
開園当初、正門を入ってすぐ右手にクスノキが100本、約200mにわたって並木として植えられました。台風や間伐により現在では55本となりましたが、堂々とした枝ぶりが100年の歴史を語りかけます。何と言っても川端康成の「古都」に6回以上も登場する名物ロードです。
 

クスノキ並木

植物園の許可を得て落ち葉を1枚ずつ皆に渡し、根本から三つに分かれている特色ある葉脈を観察してもらいました。クシャクシャと握りつぶすときつい匂いが漂い、樟脳の原料であるクスノキを再認識できました。
 

写真でクスノキの葉の説明をする大谷芙美子会員

《モッコク》
伏見区の海宝寺にある樹齢400年を超える伊達政宗お手植えのモッコクの隣に、クローンが次世代株として植えられています。この兄弟のクローンが、平成30年の台風で倒木被害の大きかったクスノキ並木の一画に植えられました。
 

大芝生地
創園当初から芝生の広場として親しまれましたが、戦争中は食糧増産の一助として、1区画30坪に区分し、市民農園として提供されました。

戦後、植物園が進駐軍の下士官の家族住宅用に接収され、その建設のために園内の樹木は片っ端から伐採されていきました。その時、植物園関係者は「せめて園の南部と東部の帯状の地域の接収免除を…」と陳情に陳情を重ね、ようやく認められたその僅かな土地に、長年大切に育てた貴重な植物の一部を移植したそうです。

昭和33年に返還された時は、2万5千本以上あった樹木が6千本ほどになり、“木のない植物園”と言われました。住宅などを撤去した後の廃墟のような土地から、現在のような立派な植物園に復興させた陰には、貴重な植物を必死で守り抜いた植物園関係者、そして植物園再開を願った京都市民の熱い想いがあったればこそといえるのではないでしょうか。
 

進駐軍に接収されていたときの写真で説明

小野蘭山顕彰碑
小野蘭山は江戸時代の本草学者です。平成22年、京都での没後200年記念行事が植物園で催され、この記念碑が建設されました。

植物園の開設に力を尽くした大森知事の寄附で創設された大森文庫は本草学に関する貴重書を収集していて、蘭山の『本草綱目啓蒙』の大作も収められています。
 

小野蘭山顕彰碑の前で説明する植山政雄理事
小野蘭山顕彰碑

大枝垂れ桜
昭和45年、佐野藤右衛門さんから円山公園初代枝垂桜の孫に当たる桜の中から特に立派な一本をこの地に寄付していただきました。現在の円山公園の桜の姪、京都府庁中庭の桜とは従姉妹同士です。
 

大枝垂れ桜の説明をする田村光弘会員

この桜は江戸彼岸が突然変異により枝垂れたものです。成長ホルモンであるシベレリンが欠乏すると、成長した枝を引っ張り上げる材が作られなくなり、枝の重さに耐えられなくなって枝垂れるそうです。
 

大枝垂れ桜

ハゼノキ
植物園が米軍に接収されていた時、家族用住宅に住む子供のイタズラには悩まされました。ある時、子供がハゼノキに登ってかぶれてしまい、抗議した母親から伐採を要求されました。日頃から子供たちが木に登って枝を折るのに手を焼いていた技師は「何十年も大切に育ててきた木を切るのなら補償金を支払って下さい」と300ドル(現;200万円)の支払いを要求しました。母親はプリプリして帰りましたが、伐採を諦め、金網で囲んで有毒植物と表示しました。このあたりには当時にもあったと思われる樹齢100年ぐらいの木が何本も生えています。
 

ハゼノキの説明をする武富幸治部長

山茶花
半木神社までの道は山茶花が満開でした。このあたりは植物園が進駐軍に接収されていた時に住宅が建ち並んでいた場所です。

植物園が返還された後、建物の基礎コンクリートやガス管・水道管を撤去した跡が大小の穴になっていて、埋めるのにはトラック1万台分以上の土が必要だったそうです。方々から土を集め、木が育つのに適した土壌に変え、木を植えて今の状態にするまでは大変な苦労がありました。ちなみに山茶花の花言葉は「困難に打ち勝つ」です。
 

満開の山茶花
半木神社へ向かう途中、紅葉は盛りを過ぎていましたが

半木(なからぎ)神社
昔、上賀茂に祀られていたお社が、鎌倉時代に賀茂川の洪水により流され、この地に漂着しました。ながれぎから、ながらぎ、なからぎになったそうです。

神社の周りの森を流木(なからぎ)の森と呼び、植物園が開設される時にも、この森は自然のまま残されました。平安京が造られる前の古代原生林の様子を残しているのは糺の森とこの流木の森だけです。
 

半木神社の説明をする丹羽氏昭会員

《連理の木》
植物園の連理の木は、モミの木とムクの木が合体しています。違う種類の木が癒着するのは珍しく、縁結びの御利益があるそうです。
 

モミの木とムクの木が合体した連理の木

《ヤマコウバシ》
山にある香ばしい木という意味です。枯れ葉をつけたまま越冬するため、冬でも葉が落ちないので、受験生のお守りになるそうです。
 

ヤマコウバシ

《カゴノキ》
鹿の子供のような斑があることから、名付けられました。昭和9年、室戸台風の直撃を受けて植物園の木が数千本も倒れ、連日復旧作業が続きました。この時、真っ先に手入れされたのが貴重な流木の森で、その中でも一番に引き起こされたのがカゴノキの大木でした。

《レバノン杉の切り株》
レバノン杉は古代から優れた木材として使われていましたが、絶滅の危機に瀕しています。植物園には1本だけありましたが、平成29年の台風で倒れてしまいました。貴重な木なので、引き起こしてワイヤーで支えていましたが、ついに力尽きました。近くには次世代の苗木が植えられています。
 

レバノン杉の切り株

《バクチノキ》
樹皮がウロコのように剥離し赤い木肌を示しています。バクチに負け身ぐるみ剥がされたような姿からこの名がついたとされます。
 

バクチノキの説明をする田村光弘会員

植物園へのアクセス
大正12年、植物園が開園しましたが、市街地から北に離れているため、アクセスが問題でした。まず、開園に合わせて市電の烏丸線が、今出川から現在の北大路橋の北にかかっていた中賀茂橋の西詰まで延伸しました。これによって開園から3ヶ月の間に4万人もの人が植物園を訪れたそうです。

5年後には市バスが出町柳から植物園前まで運行し、さらに便利になりました。

平成2年、地下鉄が北山駅まで延伸し、北山駅を降りてすぐ、北山門から入園できるようになり、アクセスが非常に良くなりました。
 

植物園へのアクセスの説明をする大谷芙美子会員

 

北山門で終了となりました。
参加された会員の皆様からは、知ってから見ると植物の魅力に改めて感動したという感想をいただきました。(雨でも頑張って来たかいがありました)

植物園からも都草の取り組み姿勢を高く評価いただき、資料作成や個別の質問にも積極的にお教えいただいて、感謝、感謝です。

(武富幸治部長 田村光弘会員 大谷芙美子会員 丹羽氏昭会員 植山政雄理事)

(広報 須田信夫)

(写真 須田信夫)

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