活動内容

第100回歴史探訪会 伏見深草部会「激動の伏見!明治維新を行く」(2022.10.27)

第100回歴史探訪会 伏見深草部会「激動の伏見!明治維新を行く」(2022.10.27)

日 時  令和4年10月27日(木)13:00~  晴れ

集合場所 京阪伏見桃山駅改札口

参加費  500円

参加人数 41名(スタッフ・事務所11名含む)

コース  駿河屋・魚三楼→伏見奉行跡→伏見市石碑→寺田屋→伏見口戦いの激戦地跡
→電気鉄道事業発祥地→西岸寺→薩摩藩伏見屋敷跡→松林寺墓地→大黒寺

秋晴れのすがすがしい青空のもと41名の参加をいただきました。冒頭のあいさつの際、100回記念につき、第1回を立ち上げていただいたいた林寛治相談役(伏見深草部会々員)と坂本孝志特別顧問(前理事長)のお二人に前に出ていただき、歴史探訪会を長きにわたり開催できた感謝と今後も益々のご活躍を祈念して、皆様より拍手喝采をいただきました。

はじめに「激動の伏見!明治維新を行く」と題して、前回「院政期最大の遺跡 鳥羽離宮を訪ねて」でも説明した小枝橋での「鳥羽伏見の戦いの発端」と、秋の山などからの発砲の轟音を合図に、ここ伏見でも戦闘が開始され、近代の世界では珍しい白兵戦に突入したことから説明していきました。

*100回の記念にあたり、各歴探担当者の努力、研究及び説明を重んじて、その熱い思いを伝えるために次のとおり報告文を作成しました。               

伏見深草部会 部長 森 幸弘

 

歴史探訪会100回目にあたり挨拶する林寛治相談役(中央)、右は坂本孝志特別顧問、左は森幸弘部長

総本家駿河屋 5代目岡本善右衛門が秀吉に「煉り羊羹」(原型)を献上し、聚楽第で大茶会の引出物として諸大名に配られ賞賛を受けた。江戸時代に6代目が寒天と小豆を使った現在の練羊羹の製法を完成し、これが元祖と伝わる。

貞享2年(1685)、綱吉(5代将軍)の長女「鶴姫」が紀州頼宜の孫綱教に輿入れした際、同じ「鶴」(当時は「鶴屋」)の字を使うのは恐れ多いとして「鶴」を返上し、「駿河屋」の屋号を賜った。また、「鶴屋」が紀州へ出店した後も伏見の店舗は残され、現在、和歌山の店舗は「総本家駿河屋」の「駿河町本舗」、京町の店舗は「伏見本舗」と称している。

  

総本家駿河屋と魚三楼の説明をする神山友代会員
総本家駿河屋

 

魚三楼 近年の改築後も表格子の一部に当時(維新の戦い)の弾痕跡の残っている格子がはめてある。

今も弾痕跡が残る魚三楼

 

 

伏見奉行所跡 伏見は交通・経済の要所でもあり、宇治・木津・伏見の船舶も管轄した。

歴代奉行には茶人・作庭家の小堀遠州はじめ44代に上る。この伏見の戦いでは、大手筋通をひとつ隔てた御香宮神社には薩摩軍が本陣を敷き、幕府側の会津兵や新選組隊士(直前近藤勇が銃撃され、この時から土方歳三が指揮する)に御香宮東方の龍雲寺より砲火が浴びせられたが、奉行所は持ちこたえた。さらに、大山彌助(巌)が第二砲隊を率い、その高地より猛射を加え奉行所は焼け落ちた。そして、幕府軍は千両松原、淀方面へと敗走した。この時、幕府軍の攻撃で薩摩伏見藩邸は焼亡した。
 

伏見奉行所跡で説明する久世幸男会員

 

伏見工兵第十六大隊跡 奉行所跡地。日露戦争末期の明治38年(1905)に編成され、第十六師団に属する。戦後、米軍キャンプ地となり、その後返還されて市営住宅桃陵団地となった。伏見工兵第十六大隊の旧兵舎営門跡が遺っている。

昭和初期、陸軍工兵第十六師団の兵営地(兼練兵場)となっていたが、この横を奈良電鉄(現近鉄)が通ることとなった。軍部は機密が漏れると反対し地下鉄にしろと結論付けたが、伏見の酒造組合が地下水の水脈を絶たれると反対した結果、高架にして壁を立てることで陸軍も折れた。「帝国陸軍に勝てるのは、伏見の酒だけや」と語り継がれた。
 

伏見工兵第十六大隊跡

伏見市の石碑 昭和4年(1929)5月に京都府「伏見市」が誕生したが、財政的な行き詰まりや全国的な町村合併が進んだ。わずか1年10か月後、昭和6年(1931)4月、伏見市と深草町を中心とした南部地域の合併によって「伏見区」が成立した。その結果、伏見市長は中野種一郎氏の一代だけとなった。
 

御大典記念埋立工事竣工記念碑 左下に伏見市長の名が刻まれている

寺田屋 幕末の頃、寺田屋は主人伊助にかわり妻のお登勢が仕切り、薩摩藩の定宿でもあった。

幕末、ここで二つの大事件が起こった。

寺田屋騒動・・文久2年(1862)の薩摩藩同士の残虐な殺戮は、尊攘派の有馬新七ら9名が犠牲者となり大黒寺に「薩摩九烈士の墓」がある。このとき即死の6名の遺体は、呉服商井筒屋伊兵衛(大黒寺檀家総代、明治期に子孫が齋藤酒造を興す。【清酒・英勲】)が手代数人と駆けつけ白木綿で志士たちを包み大黒寺へ運んで弔い、寺田屋の女将お登勢が仮葬儀を仕切った。

龍馬遭難事件・・慶応2年(1866)1月23日深夜、寺田屋の2階で坂本龍馬と三吉慎蔵が寛いでいた処へ伏見奉行所の捕り方に踏み込まれ龍馬が手傷を負った後、濠川端の「材木小屋」へ逃げ込み、そして伏見薩摩藩邸に救命されたと云う有名な事件である。

江崎権兵衛 阿波橋材木商。明治22年(1889)初代伏見町長、のち衆議院議員、大実業家。この人物が伏見の復興に立ち上がった。町の大半は焼かれ、復興の資金は大阪からも入ったが、このままでは伏見が消滅してしまうと、まず、伏見を元気にするには歴史的に有名な寺田屋から再生しようと考え、明治26年(1893)大阪人に渡っていた南浜262番地の土地(寺田屋跡、現在の庭園)をはじめ、翌年には263番地の土地(自分の隠居場⇒明治38年(1905)寺田屋伊助に援助し譲渡、これが現在の寺田屋)を購入。さらに龍馬が逃げ込んだ「材木小屋」の地などの歴史的な関連した土地を購入した。その後、大正3年(1914)江崎氏死去。262番地の土地(庭園・元寺田屋跡地)を伏見町に寄付、現在、京都市の所有となっている。一方、大正7年(1918)伊助死亡。263番地の土地を他人に売却。昭和30年(1955)14代伊助と名乗る男が史跡観光旅籠「寺田屋」を再々建て争論となった。寺田屋を巡る論争(寺田屋が幕末のものか、焼失し再建したものか)は、やっと平成20年9月京都市が結論(顕彰銅碑の『寺田屋遺址』の文字等の資料による)を出した(NHKの大河ドラマ「龍馬伝」の2年前)。しかし、この話は今なおくすぶっている。
 

寺田屋の説明をする森幸弘部長
寺田屋

伏見口の戦い激戦地跡 「伏見京橋」は大坂の八軒屋(天満橋付近)からの三十石船の終着地で、伏見港の中心地でもあり、西国への出入国の玄関口でもあった。ここには40件程の船宿や旅籠が軒を連ねていた。「伏見長州藩邸」が京橋付近にあつたが、元治元年(1864)7月、家老「福原越後」を隊長とする長州藩の兵約500人が伏見街道、深草一本松、稲荷付近で大垣藩の守備隊、会津藩、新選組他と激突した。退却した伏見藩邸は彦根藩からの砲撃により炎上、伏見の町の数十軒が類焼し、「長州焼け」と呼ばれた。御所(蛤御門)の戦いの始まる数時間前の出来事で、教科書には載らない戦いであった。
 

伏見口の戦い激戦地跡の説明をする岡本学会員
伏見口の戦い激戦地跡の石碑

 

電気鉄道事業発祥地 明治27年(1894)2月1日、わが国最初の電気鉄道が東洞院塩小路から伏見町下油掛(伏見線)に開通した。この2ヶ月後には岡崎で第4回内国博覧会が開かれた。初の伏見線は6.3㎞ 、時速約10㎞、40分で運行した。当初はどこでも自由に乗り降りでき、告知人という少年が「電車が来まっせ、あぶのおっせ」と知らせた。「チンチン電車」の由来は、チンチンと鳴らすと「もう降りる客はいない、出発しましょうか」の合図であった。しかし、事故が多発したため救助網を前面の車台に取り付けた。電力は琵琶湖疎水の水力発電で供給されていたため、水路の藻を刈る日は発電が中断し、「もをかるひはモヲカラナイ」と言われた。また、東方の岡崎へは、鴨川をいかに渡すのかが問題となったが、結局、二条に「木造」の橋を架けて渡した。

電気鉄道事業発祥地の説明をする樋口千賀子会員

伏見油懸地蔵(西岸寺) 正式名は油懸山地蔵院西岸寺。本尊の阿弥陀仏は定朝の作。慶応4年(1868)の鳥羽伏見の戦いでは、ここ油懸通が白兵戦となり南浜付近の民家は多くが焼け落ち、この壮大な西岸寺もことごとく焼け落ちて地蔵堂1宇を残すのみとなった。

その昔、山崎の油商人がこの門前で転び桶の油を流してしまった。商人は残った油を地蔵尊(以下「地蔵」という。)」にかけ供養したところ、商売は繁盛し長者になったという。以来、地蔵に油をかけて祈願すれば願いがかなうと多くの信仰を集めるようになった。今では地蔵の油の厚さが2センチ程になり黒光りしている。この地蔵は石仏で鎌倉時代のものであろうといわれている。

境内にある松尾芭蕉の句碑(蕉翁塚)には『我が衣に ふしみの桃の 雫せよ』と刻まれている。この句は、芭蕉が住職の任口上人(「以下「上人」という。」を奈良の二月堂お水取りを見学したのち訪ねた折に詠まれたものである。上人は北村季吟を師とする同門の大先輩。芭蕉が上人を伏見の桃に擬して、しずくが自分の衣(心)に染み渡るように、徳化を受けたいと詠じた。現在、この句からとられた「桃の滴」という酒は、松本酒造(菜の花と酒蔵で有名)の銘柄となっている。

伏見油懸地蔵(西岸寺)の説明をする安田富江会員

薩摩藩伏見屋敷跡 嘉永6年(1853)9月、13代将軍家定のもとへ嫁ぐ島津篤姫もここに宿泊し、御所の近衛家を訪問し、改めて近衛家の養女となった。約1週間滞在し、東福寺・万福寺を訪ね江戸へ向かった。これが彼女の生涯一度の京都観光となった。

慶応2年(1866)1月の坂本龍馬寺田屋遭難事件では、濠川沿いの「材木小屋」に逃げ込んだ重傷の龍馬をお龍や三吉慎蔵の通報により、伏見留守居役大山彦八の舟によって搬送し救出された。その後、伏見奉行所の龍馬引き渡し要求を拒否した薩摩藩と幕府の関係は、以後急速に悪化していった。

薩摩藩伏見屋敷跡で説明する岡本学会員
薩摩藩伏見屋敷跡 右面に坂本龍馬寺田屋脱出後避難之地と記されている

 

寒天発祥の地 薩摩藩邸近くにあった旅館美濃屋で島津公をもてなす食事に供された「石花菜(ところてん)」が寒い屋外に置き忘れられて凍り、偶然、寒天の製法が発見されたことなどの伝承が多数伝わっており、また、後に寒天を材料の一つとする練羊羹が伏見の名物になっていた。さらに、寒天に関する史実も多数存在することから寒天発祥地とされた。

令和2年12月に伏見中学校前に「寒天発祥之地」の石碑が建てられた。

「寒天発祥之地」の石碑前で説明(説明者は林寛治相談役)

 

寒天発祥之地の石碑と駒札

 

大黒寺 真言宗の寺。藩主島津義弘は、島津家の守り本尊と同じ出世大黒天を祀るこの寺を薩摩藩の祈祷所とし、寺名も大黒寺と改めた。上意討ちの為、寺田屋騒動九烈士の墓は、名誉を回復させた西郷隆盛が自費で建て、墓碑銘も自筆のものである。また、この寺の中には西郷と大久保利通が今後のことを会談した部屋も残され、九烈士ゆかりの書や和歌などもある。

木曽川改修工事と平田靱負の墓 宝暦2年(1752)徳川幕府は薩摩の財力を減じさせるため、木曽・長良・揖斐3川の治水工事を薩摩藩に命じたが、思いもよらぬ大洪水や災害のため莫大な財政を費やし、結局、当初予算の10倍(300万両)となった。家老で責任者の平田靱負は、その責任を取って薩摩の地を望み自刃した。そして、この大黒寺に葬られた。

伏見天明義民7名の遺髪塔 江戸時代後期、天明5年(1785)文殊九助ら3名が江戸へ行き、寺社奉行に直訴した(時代劇のような)出来事。伏見奉行小堀政方(まさみち)の年貢取り立てなど暴政・悪政を極め、お家断絶となったが、義民6名も獄中死した。政方は、小堀遠州の子孫。

御香宮神社には伏見義民顕彰碑(勝海舟・本文、三条実美・額文)が建つ。

八代美津女 美津女は鹿児島で生まれ、八代規に嫁ぎ、明治10年(1877)の西南戦争ため京都へ向かう途中、神戸で第三子を身ごもりながら亡くなった。美津女は薩摩ゆかりのこの寺へ葬られた。墓は墓地の大きな木の下にある。また、「幽霊子育て飴」の伝説が伝えられており、今の伏見区役所あたりで売られていた。
 

大黒寺の説明をする林寛治相談役
最後に100回記念の記念撮影をしました

(広報 須田信夫)
(写真 須田信夫)

 

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