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活動内容

わくわく倶楽部(フィールドワーク)・正面通り(22.6.29)

2022.07.11

わくわく倶楽部(フィールドワーク)・正面通りを行く       

・日 時 : 2022年6月29日(水) 10時~11時50分
・参加者 : 27名 
・経 路 : 豊国神社鳥居前⇒正面橋⇒上珠数屋町通り(渉成園北側)
       ⇒文子天満宮⇒烏丸通り平安法衣店前 

 昨日6月28日、過去最速14日間で梅雨が明け、晴天の下、参加者過去最多の27名で元気に豊国神社鳥居前を出発。正面通りを西に向かいました。出発時風があり意外と涼しく気温29.9度。

正面通りの名称は、方広寺の大仏の正面につながる通りであることに由来し、東は大和大路通り、西は千本通りまでの東西の狭い通りです。途中、渉成園・東本願寺・西本願寺で中断されています。

◆明治天皇(めいじてんのう)御小(ごこ)休所(やすみどころ)下京第二十七区小学校阯(しもぎょうだいにじゅうしちくしょうがっこうあと)(写真右側の石碑)

下京第二十七区小学校阯(後は耳塚)

 明治5(1872)年5月23日、明治天皇(1852~1912)は品川から軍艦で三重県久志本村に上陸。伊勢神宮参拝後、大阪を経て5月30日に入京。その際大阪より乗船して伏見に入り、伏見の旧本陣・藤森神社・この地、下京第二十七区小学校(貞教校)で休憩し、京都御所に入った。その後に中国・九州・四国を巡り7月10日神戸を発し、海路12日横浜に到着し、還幸。

この石碑は下京第二十七区小学校(貞教校)の旧地を示すものである。

下京第二十七区小学校は、明治10(1877)年豊国神社の造営にあたり現在地の上堀詰町に移った。(京都市歴史資料館 情報提供システムより)

*貞教小学校は、平成14年に閉校、現在その跡地には京都美術工芸大学東山キャンパスが建っています。

皆さん熱心に碑文を読まれていました。

◆史跡『方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔』
 方広寺の石塁・大仏殿跡・南門跡・回廊跡などと耳塚と馬塚の2基の五輪塔とを合わせて国の史跡に指定されています。吉野会員から説明を聞きました。

史跡『方広寺大仏殿跡及び石塁・石塔』

馬塚

◆熊谷山専定寺・烏寺(からすでら)
 専定法師がこの辺りで、2羽の烏が蓮生坊(熊谷直実)の極楽往生の日を聞いたことによります。

專定寺(烏寺)

◆京料理 道楽
 寛永年間に創業、約380年。「道楽」とは仏道修行で得た悟りの楽しみ・法悦の境界の意。寛永年間、石田三成の軍師・島左近の邸宅跡に茶店を開いたのが始まりとされ、京都市より歴史的意匠建造物に指定されています。
 入口には柊と笹、屋根には鍾馗さんがしっかり門番されていました。

道楽

出発から30分、ここで給水タイムです。気温ぐんぐん上がって36.4度

◆元和キリシタン殉教の地
 江戸幕府のキリシタン弾圧は、慶長17(1612)年に始まり、大阪冬の陣(1614)が起こるまで続きました。二度目の弾圧は元和年間(1615~23)に始まっています。京都の所司代板倉勝重(元僧侶)は、キリシタンに好意的で投獄した信徒を比較的自由にさせ、釈放した者もいましたが、元和5(1619)年上洛した徳川秀忠は、そのことを知り、激怒し釈放した者も含めすべての信徒に火あぶりの刑を命じました。10月6日、男26人・女26人計52名(内15歳以下の子供11名)の信徒は、みせしめのため大八車で引き回された後、この六条河原で火あぶりの殉教を遂げています。板倉は最後の最後まで信仰を棄てるように信徒を説得しましたが聞き入れられず、せめて火あぶりの際に長く苦しまず一気に遂げられるよう、大量の薪を用意し猛火による処刑を決行しました。
1994年8月に京都市によりこの記念碑が建てられています。

元和キリシタン殉教の碑

鴨川に架かる正面橋

◆任天堂旧本社社屋・ホテル丸福楼
 京都にある任天堂の旧本社がホテルに変わった。国内外でレストランやホテルを展開するPlan・Do・See(東京千代田区)は1月20日、任天堂の前身である山内任天堂の旧本社を改装し、ホテル「丸福楼」として4月に開業。

 花札などの製造、販売や、創業者・山内家の住居として利用していた建物を当時の趣を残しつつ改修した。ホテルの名称は1947年に山内任天堂が設立した「丸福」の屋号からとった。当時の建築様式や内装を生かした既存棟(旧本社社屋)とシンプルで居住性の高い新棟がある。新棟は世界的建築家・安藤忠雄さんが設計と監修を担当した。(説明文は野津部長より)

出発から1時間2度目の給水タイム。気温37度になりました。皆さんまだまだ元気です。

ホテル丸福楼

壁に貼り込まれたプレート

◆坂本特別顧問大発見『耳』に御利益があるお地蔵さん
 このお地蔵さんをお世話されている方から話が聞けました。?
 鴨川の河原で穴が空いた石を捜し、名前・生年月日・性別・左右どちらの耳かを書いて祠に吊るしお願いすれば『耳』に御利益があるそうです。
 お地蔵さんの祠には、たくさんの穴が空いた石が吊るされていました。お願いされるときには、しっかりした針金や糸で吊るして下さいとの事です。

耳にご利益のお地蔵様

高瀬川に架かる『志よめんはし』

◆上珠数屋町通り(渉成園北側の通り・冒頭地図参照)

上珠数(?)屋町通り

 この道には明治28(1985)年4月1日から明治34(1901)年1月20日まで京都電気鉄道「木屋町線」の路面電車が走っていました。(俊藤会員・岡本会員より)
 木屋町線は七条停車場~木屋町二条までを結ぶ路線で、第四回内国勧業博覧会会場の岡崎を経由して蹴上まで続く鴨東線に接続していました。

◆坂田詰所跡
 東本願寺は、江戸時代後期の天明8(1788)年から元治元年(1864)までに4度火災に遭っています。再建のため地方から出仕した門徒たちの宿舎として出身地ごとに「詰所」が建てられ、当時は63軒もの詰所が東本願寺の門前に建並んでいました。明治の再建以降は、参拝者の宿泊施設として運営され、現在も数件営業を続けられています。この地に建っていた「坂田(旧長浜市)詰所」はその中でも特に古いものであったようです。

坂田詰所跡

◆文子天満宮
 明日は夏越しの大祓、一足お先に茅の輪くぐり。

文子天満宮

気温36.6度。出発から1時間半3度目の給水タイム。樋口会員から塩飴を配っていただきました。ありがとうございました。
こちらから烏丸通りの平安法衣前まで歩いて11時50分無事に解散。

散策中、数人の博学の会員からたくさんの興味深い話を聞くことができましたがここでは全部を紹介しきれませんでした。お詫び申し上げます。

暑い中、皆様お疲れ様でした。

(報告:藤川由美子会員)
(写真:俊藤 靖・藤川由美子・熊谷喜輝)
(広報部:熊谷喜輝)