旧議場土曜講座 11月は「応仁の乱・東陣エリアを語る」(2021.11.20)
旧議場土曜講座 11月は「応仁の乱・東陣エリアを語る」(2021.11.20)
旧議場土曜講座11月は、豊田博一理事による「応仁の乱・東陣エリアを語る」です。
応仁の乱・東陣エリアを語る
応仁・文明の乱(1467年〜1477年) を語り出すと時間がとても足りませんので戦いの大きな流れと、見方のヒントを話します。
乱の直接の原因は、20年来争われていた畠山家の家督争いに対し、山名宗全が、当時家督から外されていた畠山義就に肩入れし、管領であった畠山政長 (細川勝元が支援していた)を失脚させたことにあります。
これに反発した畠山政長が兵を起こし(上御霊社の戦い)、以降、各守護大名がそれぞれの思惑のもと、政長を支援する細川勝元の東軍と義就を支援する山名宗全の西軍に分かれての戦いが11年間続くことになります。(足利義政はこの戦乱に引き込まれる形で東軍の旗頭になる)
戦局は、大内政弘が西軍に参加したことにより、初期の4年間は西軍が優位にたちます(東軍は狭いエリア【東陣】に閉じ込められた状況)。1471年に朝倉孝景が東軍に寝返った事から、徐々に東軍が優勢になる。最終的には東軍勝利の形で和睦が成立します。
応仁・文明の乱の理解の仕方ポイント(最近の研究によれば)
〇応仁文明の乱の原因は将軍家の継嗣争い?
日野富子が山名宗全に足利義尚の後押しを依頼?(応仁記の記述は疑問)、応仁文明の乱の原因は将軍家の継嗣争いと言う研究者はほとんどいない。(間接的には乱の推移に関係しているが)
〇応仁文明の乱で京都は焼け野原になったのか?
寺社仏閣は大半消失(千本釈迦堂は焼けず) 上京は甚大な被災
下京は被害は受けるが焦土にはなっていない
長期の戦で避難の為人口流出 → 荒地 空き家の増大
〇足利義政 政治が嫌になって風流人に?
義政は最晩年まで、権力を手放さなかった
祖父 義満 父 義教 の手法(各守護大名の家督争いを利用して、権力を強化)を踏襲したが失敗
応仁の乱の社会背景ともたらしたもの
生産力向上 守護代 有力家臣 国人 商人 農民の台頭 お家騒動
足軽の登場 碧山日録 応仁2年6月条(1468年)
‥‥東陣有精鋭之徒三百余人、号足軽、不擐不取戈、只持一剣突入敵軍‥‥
京都文化の伝搬
京都の治安の低下 → 京都は構に囲まれた「上の町」「下の町」へ → 町衆の成立
法華宗の台頭
守護大名在京が原則 → 細川のみ
下剋上 将軍の権威の失墜 の序曲
西陣織の歴史
平安初期 織部司(黒門通上長者町付近)
平安末期 大舎人町(猪熊通下長者町付近)
応仁の乱 大舎人町 → 堺
応仁の乱後 堺 → 西軍陣地跡(大宮今出川付近、大舎人座)
東軍陣地跡(新町今出川上ル付近、練貫座)
16世紀半ば以降 大舎人座が優勢に→ 西陣織
1730年 西陣焼け 西陣織の衰退 明治の近代化による隆盛
西陣とは
西陣織と西陣の名はセットで世に広まる。
西陣織の生産地として西陣を捉えると、上京区の烏丸通より西全部及び北区の一部を含むかなり広い範囲になりますが、応仁の乱での西軍の主な陣地や乱後から江戸時代初期頃までの西陣織の生産地から狭く見ると概ねの範囲は、南は一条通、北は上御霊前通、東は小川通、西は七本松通あたりになります。
東陣とは(応仁の乱で東軍の主な陣地があった上京の地域)
おおよそ北は上御霊通、南は一条通、東は烏丸通を越えた上御霊神社、相国寺の辺りまで、西は小川通と堀川通の間
この後は上杉本洛中洛外図を使って、東陣エリアの戦国時代の姿と現代の姿を紹介しました。
(理事 豊田博一)
次回以降のテーマと講師は以下の方々です。
なお、12月から定員が60人と人数が緩和されました。
12月18日(土):「文化の発信地だった遊廓~島原を中心に~」(講師は植山政雄理事)
申込期間:11月20日から12月17日まで
1月15日(土):「『平家物語』を深掘り」(講師は團道代会員)
申込期間:12月20日から1月14日まで
2月19日(土):「風流な文化人 足利義政」(講師は須田清司理事)
申込期間:1月17日から2月18日まで
3月19日(土):「府庁が見ていた 明治後期の京都」(講師は西野嘉一理事)
申込期間:2月21日から3月18日まで
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申し込み先は京都府府民総合案内・相談センター、TEL075-411-5000(電話受付時間:平日9時~17時)
またはメールに氏名・住所・電話番号を記載して411-5000@pref.kyoto.lg.jp にお申し込みください。
詳しいことをお知りになりたい方は、京都府府有資産活用課TEL075-414-5435までお問い合わせください。
(広報 須田信夫)
(写真 須田信夫)