活動内容

第104回研究発表会報告、堂園 光子 会員、菊井 俊彦 会員(19.10.24)

第104回研究発表会報告、堂園 光子 会員、菊井 俊彦 会員(19.10.24)

◆日 時:令和元年10月24日 午後1時10分~午後4時00分

◆場 所:ひとまち交流館 京都 3階

◆研究発表:1. 「継体天皇から欽明天皇まで」 堂園 光子 会員

      2.「今出川通の近代を歩く」 菊井 俊彦 会員

◆参加人数:43名

 

第1部は、「継体天皇から欽明天皇まで」 堂園 光子 会員です。

「古事記」は高天原の神さんから推古天皇までが書かれていますが具体的な内容はだいたい雄略天皇までです。
今回は継体天皇から欽明天皇までを「日本書紀」にそってお話しさせていただきました。

 武烈天皇亡き後、天皇の後継者としての資格のある人はいませんでした。
そこで大連大伴金村が越の国(福井県)に応神天皇5世の孫、男大迹(おおど)王を捜し出し説得して天皇として迎えました。継体天皇が応神天皇5世の孫というのは当時の(古事記・日本書紀が完成した時代=奈良時代初期)の法律(継嗣令)が影響しています。

 その中に「親王より5世の孫は親族ではない」とあります。即ち、天皇の5世までが皇族であるわけです。それでぎりぎり継体天皇が皇族となるのです。

 もし継体天皇が皇族でなかったら手白香(たしらか)皇女(仁賢天皇の娘)との間に生まれた欽明天皇は女系天皇となるので、万世一系を男系でうたっている「日本書紀」はどうしても継体天皇を皇族にしなければならなかったのです。その子供の欽明天皇がその後の大和朝廷の基礎を作ったことは間違いありません。
                                     (会員 堂園 光子)



第2部は、「今出川通の近代を歩く」 菊井 俊彦会員です。

〚1〛北野天満宮前付近

 円山公園を中心として東山地域の観光開発が進められているさなか、北野天満宮・平野神社を中心とした大公園計画がおこり設計予算もついたのですが、なぜか中止になっています。その後、明治35年(1902)開催予定の“北野天満宮千年大萬灯祭”を契機として北野天満宮の大神苑計画が浮上しました。しかし、これも下の森公園の整備だけで終わってしまいます。

 “千年大萬灯祭”に合わせて、明治29年(1896)京都電気鉄道北野線開業の許可申請が提出され、明治33年(1900)に下の森通御前に北野駅が開業します。そして、その参詣用の道として、明治34年(1901)北野新道が開削されました。

 この後、明治44年(1911)嵐山電車軌道北野線の電車軌道布設願が京電北野駅に直結するとして申請されましたが、この時には軌道敷設は行われませんでした。そして、大正12年(1923)嵐電北野線の変更申請が提出され、当初予定より北寄りのルートで下の森通御前に嵐電北野駅が設置されました。

 京都市は西今出川通の開削と市電今出川線の延伸のために嵐電北野線の白梅町駅までの短縮を交渉しています。その結果、昭和32年(1957)西今出川通が七本松通・西大路通間で開通し、市電今出川線の延伸も完了しました。

〚2〛上京区役所前付近

 近世まで平安京北郊といわれる地域の東西の道には辻子由来の道が多く、直線にならない道のズレがたくさんありました。二つの近世の地誌、『京雀』〈寛文5年(1665)刊〉と『京町鑑』〈宝暦12年(1762)刊〉から今出川通は東から兼康町通で行きあたりになっており、同じように、須磨町通も西から小川通で行きあたりになっていることが読み取れます。この兼康町通と小川通の間を小さな道がクランク状に、地図上でみれば“階段状の道”で結ばれています。京都市電今出川線軌道敷設にともない、今出川通と須磨町通の道のズレを解消するために斜めの道が造られたのです。その結果、須磨町通を含んで、北野天満宮までが今出川通となりました。

〚3〛同志社大学前付近

 『京町鑑』「今出川通」の項に「常盤井殿北町 此町北側に二条殿其西伏見殿南側京極宮様同側に今出川惣御門西方近衛殿扨烏丸東入北側山科殿上冷泉殿藤谷殿徳大寺殿竹内殿久我殿」と公家の邸宅が列記されています。じつはこの姿は徳川家康の公家町形成の産物で、近世を通して基本的に変わっていないのです。言いかえますと、今出川通は江戸時代には公家町のなかに取り込まれた通りだったと言えると思います。

 京都市電は当初、今出川河原町一条線として鴨川を越えて東山線に接続する予定でしたが、京都帝国大学物理学教室の授業・実験に影響が出るという反対により、市電今出川線は大正元年(1912)に千本通・烏丸通間で開通しました。そして、大正6年(1917)に烏丸通・寺町通間が開通、大正13年(1924)寺町・河原町間が開業して市電今出川線の整備は完了しました。

 現在は、京都御苑の北側は同志社大学の校地が広がっていますが、京都御苑も明治13年(1880)に公園化が進められるまでは明治6年(1873)の第二回京都博覧会以降、京都御所・仙洞御所・大宮御所などを博覧会場として、毎年京都博覧会が開催されていました。(会員 菊井 俊彦)

 

 

(広報部 岸本 幸子)

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