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活動内容

わくわく倶楽部(フィールドワーク)千本通を歩く(其の1)(19.9.4)

2019.10.06

わくわく倶楽部(フィールドワーク)千本通を歩く(其の1)

日 時 : 2019年9月4日(水曜日) 10時~11時30分
参加者 : 11名
経 路 : JR二条駅から内野児童公園(平安宮大極殿跡)まで

今回から千本通を散策します。最高気温34.4度。大変日差しが強い中、JR二条駅から千本通を北に向かいました。


①JR二条駅(中京区西ノ京栂尾町)
  ・明治30年(1897)2月15日に京都鉄道の二条⇔嵯峨間が開通し、二条駅が開設(4月に大宮まで開通、11月には京都駅に乗り入れ)
  ・明治37(1904)年6月 京都鉄道本社屋を兼ねた駅舎が完成
   この駅舎は、伊東忠太氏が平安神宮本殿を模したかたちで設計、皇族が使用される貴賓室も設けられていました。
  ・平成2(1990)年 高架化に伴い、300tの駅舎を二日を掛けて東に15m曳家工法で移動され話題になりました。
  ・平成8(1996)年 二条駅舎京都市指定有形文化財に
  ・平成9(1997)年 梅小路機関車館 に縮小して移設
   現在は前回散策しました「京都鉄道博物館」のミュージアムショップに改装され使用されています。115年ずっと使い続けられています。


  現在の二条駅舎は、大徳寺孤蓬庵の編笠門を模した、特徴あるアーチ型の屋根を設置。ブルネル賞建築部門の奨励賞受賞・鉄道建築協会賞・グッドデザイン賞・京都市都市景観賞などたくさんの賞を受賞しています。近畿の駅百選にも選ばれています。
  駅前には円山公園の枝垂桜三代目が植えられています。


②『千本通』は伏見区納所から北区鷹峰までの全長17㎞の南北の通りです。
  平安時代には平安京のメインストリート道幅28尺(84.8m)の朱雀大路がズドーンと通っていました。(九条大路羅城門~二条大路朱雀門)
  千本通の名前の由来は
  ☆船岡山西麓の葬送の地、蓮台野へ向かう道筋に千本の卒塔婆や石塔を立てて供養した事から。
  ☆金峰山の笙の窟で修法中に急死した日蔵(三善清行の息子といわれている)が冥界に赴き、菅原道真を無実の罪で配流、死に追いやり、他に五つの大罪を犯したことで地獄に落とされた、反省しきりの醍醐天皇に出会い「自分を地獄の責め苦から救い出すために一万本の卒塔婆を立てるよう摂政の忠平に頼んで欲しい」と言づけられ、13日後に生還し、(誰によってか?)蓮台野にたくさんの卒塔婆を立てて供養した事からとも
    諸説あります!


③西町奉行所跡(中京区押小路通千本角北聖町)
 立ち話は…ここ西町奉行所で1772年から1年間奉行を務めた長谷川宣雄の長男が、池波正太郎の小説『鬼平犯科帳』の主人公の鬼平こと長谷川平蔵(宣以)。
京都にも住まわれ、なかなかやんちゃな人だったようで云々…


 ・平安時代、この辺りには大学寮がありました。 


 ・明治43(1910)年10月~明治45(1912)年1月まで 日活の前身である京都初の撮影所、横田商会の二条城撮影所がこの東にありました。


④平安宮 朱雀門跡(中京区西ノ京小堀町)



⑤本家八ッ橋 本店(中京区西ノ京小堀町)
 京都の熊野神社の境内で茶店を開業。元禄2(1689)年、西村彦左衛門氏により伊勢物語第9段かきつばたの舞台である三河の国の八橋にかけ、八枚橋の板の形に模した菓子を考案。現在15代目。
 表の看板は、富岡鉄斎の直筆。店奥の(ウナギの寝床)四階建の工場では特別注文の八ッ橋を作っておられるそうです。


⑥出世稲荷跡(上京区千本通竹屋町下ル東側聚楽町)
 平成24年までこの地にあった出世稲荷神社の境内に、京都市が周辺の市町村を合併した昭和6年、京都の中心塔が建てられました。

 「出世稲荷神社があって澤山鳥居がならんでおり其南西隅には丸い尖った變なものが建ってゐる。大京都になってから京の中心は六角堂を離れどこに移ったかと測量の結果二條驛西裏に當る事が知れたが適當な土地がないので此境内へ京の中心塔を建てたのである。」(京の伝説 なんやかんや 田中緑紅著より原文のまま) 


⑦蛸地蔵尊(上京区聚楽町)
 千本通竹屋町下ル東側の民家の玄関前に蛸地蔵大菩薩がお祀りされています。
 咳止めの御利益があるそうです。ある信者に地蔵尊のお告げがあり、その教え通りに祈願の際に蛸を供え、数日間蛸を断つことで願いが叶ったそうです。このことから蛸地蔵と呼ばれるようになりました。
昔、この北に刑務所があり、刑期を務め終えた人が手を合わせる姿もよく見られたそうです。



⑧京都所司代下屋敷(千本屋敷)(上京区主税町)
 ・江戸時代この辺り(【図】参照)に,所司代下屋敷がありました。
  江戸時代初期は、まだ敷地は狭く、東側と北側には町家が建ち並び、西側と南側には畑が広がっていました。
享保年間(1716~1736)までに町家を収用し、北は丸太町通、東は西日暮通、南は竹屋町通、西は千本通まで敷地が拡大しています。敷地の中心に御用屋敷が建ち、それを囲むように60戸ほどの役宅と6棟の長屋が建っていました。京都地組と呼ばれる所司代お抱えの足軽と家族が住む大規模な武家住宅街だったようです。
文化年間(1804~1818)には、敷地が北側の三分の一に縮小され、馬場、火の見櫓、火方や鳶が住む長屋が建つ火消し方住宅街に変わっています。
 ・明治3年から昭和2年1月まで刑務所がありました。(山科に移転)
 ・昭和3年 昭和天皇大礼記念京都博覧会の西会場に使用されています。

⑨京都所司代組屋敷(新屋敷)
 江戸時代、北は椹木町通、東は千本通、南は旧二条通、西は七本松通に囲まれた敷地に与力や同心とその家族が住む、京都所司代組屋敷がありました。

⑩千本丸太町交差点南東の朝堂院跡説明板


⑪千本丸太町交差点南西の平安宮跡・大極殿跡説明板


⑫千本丸太町交差点北西の平安宮跡説明板



⑬平安宮朝堂院跡・説明板(中京区丸太町通千本西入ル聚楽廻東町・りそな)


⑭平安宮朝堂院大極殿跡(中京区聚楽廻東町・内野児童公園)
今回はここ大極殿跡で終了です。1時間半の散策でしたが、皆さん汗だくで頑張って頂きました。お疲れ様でした。


次回は10月16日(水)9時50分 内野児童公園集合です。

少しは涼しくなっていると思いますので皆さんよろしくお願いします。

(報告:藤川由美子会員)
(写真:小松香織・熊谷喜輝)
(広報部:熊谷喜輝)